目 次
興奮必至のすごい対談に夢中になる
すごい本を読んだ。非常に気に入った。読んでいる最中にも興奮させられるが、読み終わった後にも、ジワジワと満足感が込み上げてくる。
「戦争が遺したもの 戦後世代が鶴見俊輔に聞く」というハードカバーの対談本である。
これは日本の戦後を代表する哲学者、評論家にして知識人であった鶴見俊輔に、このところ僕がすっかり夢中になっている小熊英二がインタビューした本だが、小熊英二が自分一人ではなく、かの有名な上野千鶴子に声をかけて、二人で徹底的に鶴見俊輔の人生と思想に迫った本だ。
その本には副題が付いている。「鶴見俊輔に戦後世代が聞く」というのがそれ。
小熊英二が、鶴見俊輔にインタビューするに当たって、戦後世代というのは少し年代が違う、今年60歳になる小熊英二は完全に戦争を知らない世代であり、「戦後世代」というのには違和感があるとのことで、戦争を知っていて戦後世代に相応しい論客として担ぎ上げてきたのがあのやり手の理論家である上野千鶴子とあって、否が応でも期待が高まろうというもの。
本書のはしがきに、小熊英二はこう書いている。
「筆者は、上野千鶴子氏に、共同で鶴見氏に聞き取りを行なう案を持ちかけた。上野氏は鶴見氏と面識があるばかりではなく、フェミニズムの立場から、国民基金や「慰安婦」問題への発言も多い。またいわゆる「全共闘世代」である上野氏は、世代的に鶴見氏と筆者の中間にあたり、「戦後」の問い直しについて独自のこだわりがある。こうした理由から、筆者単独よりも、上野氏共同で鶴見氏にお話をうかがうほうが、実り多いのではないかと考えたのである」
実際に読んでみて、期待を裏切らないどころか、遥かにそれを上回る稀有な対談が実現した。
これはおもしろい。実に興味深い。読んでいて、思わず興奮してしまうような一切の忖度なしの斬り込みと回答の連続に、夢中になってしまう。
めちゃくちゃおもしろく興味の尽きない第一級の対談、いや3人なので鼎談と言うべきか。
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「戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く」の基本情報
【発行年代】初版第1刷が発行されたのは、2004年3月10日。今から約20年前である。僕の手元にある本は2017年1月7日の初版第13冊であり、この本は現在でも普通に流通しており、20年間に渡ってハードカバーのままで売れ続けていることは、この業界にあっては極めて珍しいことである。
やはり、その内容の濃密さ、鶴見俊輔の貴重な肉声が読め、戦前から戦後の大激動期のリアルな歴史を追体験できる点が、読者を惹き付けているんだろう。
【出版社】新曜社という僕にはあまり馴染みのない出版社だが、この東京の神田神保町にある新曜社は、小熊英二のビックリするほど分厚いハードカバーを発行して出版社である。小熊英二の大作は全てここから発行されている。
【著者】鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二
【ページ数】巻末に掲載されている貴重な「人名索引」と著者のプロフィール部分も含めると405ページ。
それなりの厚みがある。
本書の全体の構成と見出しタイトル
3人による対談(鼎談)は、3日間連続(2003年4月11日~13日)で集中的に実施された。それが非常に良く理解できる構成となっている。目次から抜粋する。こんな具合いである。
まえがき
一日目
原点としての生立ち
ジャワでの捕虜殺害
「従軍慰安婦」との関わり
雑談1 一日目夜
二日目
八月十五日の経験
占領改革と憲法
『思想の科学』の創刊
丸山眞男と竹内好
五〇年代の葛藤
戦争責任と「転向」研究
雑談2 二日目夜
三日目
六〇年安保
藤田省三の査問と女性史の評価
吉本隆明という人
アジアの問題と鶴見良行
全共闘・三島由紀夫・連合赤軍
べ平連と脱走兵援助
雑談3 三日目夕
あとがき
人名索引
この何とも興味をそそるタイトルはどうだろう?
それぞれのタイトルの下に更に細かいサブタイトルが付いていて、これを見るだけで、直ぐに読んんでみたい!という思いに駆られる読者が多いのではないだろうか。
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「雑談」が実に楽しく、秀逸な企画
本書で非常に印象に残るのは、その内容の濃密さもさることながら、3日間の対談の後、その日ごとに、打ち上げというか、食事会に出かけていたようで、そこでの正式な対談ではない気の置けないざっくばらんの打ち解けた「雑談」が収録されているところである。
その部分のざっくばらんの極めて個人的な話しや「世間話」が、何とも楽しく貴重。
この「雑談」部分は、上下2段に組まれていて、フォントも2回りほど小さい。それだけに字数は多くて、付録というよりも、この部分はこの部分で実に読み応えがある。
粋なことをやってくれたものである。本編の対談では時には若手二人から、特に上野千鶴子から鶴見に対して、厳しく追及するような一触即発に近い緊張感が高まるシーンも再三出てくるのだが、そんな厳しい対談の後に、ホッとさせられる和やかでくつろいだやり取りが、心に染みてくる。上野千鶴子も小熊英二も、心の底から鶴見俊輔をリスペクトし、慕っていることが否応もなく伝わってくるのである。
これは画期的な企画であった。素晴らしい結果になったと一読者に過ぎない僕も本当に嬉しくなってくる。
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鶴見俊輔とはどんな人
戦後の哲学・評論界の知的巨人であり、行動する人でもあった波乱万丈の93年の鶴見俊輔の生涯を紹介することは、容易ではない。本書の巻末に掲載されている著者紹介をそのまま引用することが一番適切だろう。以下引用。
1922年、東京生まれ。哲学者。
15歳で渡米、ハーヴァ―ド大学でプラグマティズムを学ぶ。アナーキスト容疑で逮捕されたが、留置場で論文を書き上げ、卒業。交換船で帰国し、海軍ジャカルタ在勤武官府に軍属として勤務。戦後、丸山眞男などと『思想の科学』を創刊。アメリカ哲学の紹介や大衆文化研究などのサークル活動を行なう。京都大学、東京工業大学、同志社大学で教鞭をとる。60年、安保改定に反対し、市民グループ「声なき声の会」に参加。65年、べ平連に参加し、アメリカの脱走兵を支援する運動に加わる。70年、警官隊導入に反対して同志社大学を辞任。2015年7月逝去。
主な著書は省略。
上野千鶴子について
上野千鶴子は、1948年生まれの知らない人のいない日本のフェミニストにして社会学者である。
1993年4月、東京大学文学部助教授に就任。上野の招聘には反発も見られ、文学部教授会では異例の反対票が投じられたことはかなり話題になった。
1995年から東京大学大学院人文社会系研究科教授就任したが、停年まで2年残して退職。その後、NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長に就任。
家族社会学、女性学研究者の立場から、フェミニズムについて積極的に発言を続けている。『セクシィ・ギャルの大研究』(1982年)『家父長制と資本制』(1990年)、『おひとりさまの老後』(2006年)などの著書が知られている。
本書の中では、「専門は女性学、ジェンダー研究で、この分野での指導的理論家の一人」と記されている。
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小熊英二について
小熊英二は1962年生まれの社会学者。慶應義塾大学教授。実はギタリストでもある。
僕が最近、小熊英二に夢中になっていることはご存知の方が多いのではないだろうか。この熱々たけちゃんブログでも、2冊取り上げている。「社会を変えるには」と「生きて帰ってきた男」である。
この2冊を読んですっかり小熊英二の魅力にはまってしまっった。
小熊英二の略歴を示す
東京大学農学部卒業。ナショナリズムと民主主義を中心とした歴史社会学が専門。確固たる問題提起と膨大な文献にあたる緻密な論証で高評価を得る。
都立立川高校を経て、名古屋大学理学部物理学科を中退し、東京大学農学部を卒業。岩波書店に入社し、当初は雑誌『世界』編集部に在籍したが、営業部へ異動になった後に休職し、東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻に入学。1997年慶應義塾大学総合政策学部専任講師、2000年助教授、2007年教授。慶應義塾大学アート・センター所員。
代表作は何といっても『〈民主〉と〈愛国〉』と『1968 若者たちの叛乱とその背景(上)(下)』。いずれもビックリする程の分厚い本。
僕は『〈民主〉と〈愛国〉』を読み始めているが、一般的には中々気軽には手が出せない本だ。戦後日本におけるナショナリズムの多様性を精緻に分析している名著である。
プライベートではアコースティック楽器により世界各国のトラッドをベースとした楽曲を演奏するバンド・Quikion (キキオン) を結成し、東京都内を中心にライブ活動を続けている。小熊はギター、ブズーキなどを担当。実に多彩な人である。
初めて小熊作品を読む前から買ってあった本
この本は小熊英二にハマっている僕が、3冊目の小熊作品として購入したのではなく、実は、かなり前から購入してあって、読めていなかった本なのである。
僕の大好きな作家が、本書を大絶賛している本を記事を読んで、即座に購入したものの、読めずにいたもの。
小熊英二の魅力に開眼した後、あの人が大絶賛して買ってあった本、確か小熊英二が絡んでいなかったかと何となく気になって調べてみると、やっぱり小熊英二の本だったというわけだ。
そこで一気に読み始めた次第。実に素晴らしい本で、益々小熊英二のことが好きになってしまった。
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この本のことは米原万里の絶賛で知った
上述の「僕の大好きな作家が、本書を大絶賛している本を記事を読んで」というのは、米原万里のことだ。僕は米原万里のことが大のお気に入りなのである。彼女の本を読めば誰だって好きにならずにはいられない。本当に素敵な素晴らしい人。
その米原万里ががんのために56歳で急逝する直前に出版された壮絶な書評集「打ちのめされるようなすごい本」の中で、本書が紹介されており、これを読んで、どうしても読みたくなり、即座に購入したわけだ。
その頃はまだ小熊英二のことは何も知らず、急いで購入したものの、結局、読まずに積んでおいた。全く持って恥ずかしい。
米原真理の紹介記事を引用しておく。「打ちのめされるようなすごい本」(文春文庫)p.511
タイトルは「学校秀才の弊害」となっている。
これを読んでもらえば、僕がこの本(「戦争が遺したもの」)のことを、ああだこうだと色々紹介するまでもないようなものだ。
「上野千鶴子と小熊英二が鶴見俊輔にその戦中体験を聞き出す『戦争が遺したもの』がすごく面白い。肩の力を抜いてスルスル読み進めるのに信じられないくらい密度の濃い内容なのだ。
アメリカに留学中アナーキズム本を読んでいたため留置場に入れられたとき、便器の上で書いた卒論がハーバード大の教授会で通って卒業できた話とか、日本の敗戦は分かっていたが、「負けるときに、負ける側にいたい」「勝つ側にいたくない」という思いで交換船で帰国した日本で徴兵され、配属したジャワで士官用慰安婦の調達をさせられた話とか、無数にちりばめられた印象的なエピソードに爆笑し、呆れ返りながら、日本と日本人について生き生きと感じ考え続けてきた独創的な知性に魅了される。
暴君だった母親への抵抗として小学校さえ出ていない鶴見は独学の人で、東大出で政治家になった上昇志向の塊のような父親に、明治以降近代化を急ぐあまり、大量促成栽培された知識人の典型を観る。試験で優秀な成績をおさめ欧米の知識を詰め込んだ秀才が権力の座につける仕組みを作ってしまった。秀才は模範解答を書こうとする。自由主義が流行すれば自由主義の、軍国主義が流行れば軍国主義の模範解答を書くような人間が指導者になってしまった。「そういう知識人がどんなにくだらないかということが、私が戦争で学んだ大きなことだった」とう鶴見の言葉は、そのまま今の日本に当てはまる。」(東京新聞 2004.3.21)
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鶴見俊輔の生き様に圧倒される
鶴見俊輔が戦後世代の若き俊英たちからの本質に迫る鋭い質問に答える形で、自ら語る壮絶な人生。
対談の中から浮かび上がる想像を絶する破天荒な生き様に、ページを捲る手が止まらなくなる。
とは言いながら、深刻なテーマを取り扱いながらも自然と滲み出るユーモアな人柄もあって、米原万里ではないが、笑いこけてしまう場面も。いずれにしても鶴見俊輔の生き様には本当に圧倒されてしまう。
華麗なる一族
鶴見俊輔を語るに当たっては、鶴見の華麗なる一族について触れないわけにいかない。父・祐輔と母・愛子のことだ。
父の鶴見祐輔は、鉄道官僚から政治家になった有力な政治家で、戦後厚生大臣を務めている。
母の愛子の父親はもっと著名な有力政治家だった。後藤新平である。
後藤新平は医師でありながら、台湾総督府民政長官、南満州鉄道(満鉄)初代総裁をはじめ、逓信大臣、内務大臣、外務大臣を歴任し、特に関東大震災後の東京の復興計画を立案し、推進したことでも有名な超大物政治家。その娘が鶴見俊輔の母親である。
つまり鶴見俊輔は、あの後藤新平の孫に当たるわけだ。
ところが、この凄すぎる両親と折り合いが悪く、類い稀な家系とそれへの反逆が鶴見を想定外の波瀾万丈の生涯へと導くことになる。
才媛の母との凄まじい関係
幼い頃から、母親から想像を絶する厳格な育てられ方をされる。ほとんどサディスト紛いの折檻(体罰)を与え、激しく罵り、ことごとく辛く当たられた。それがどうも愛情の裏返しと期待の大きさ故だったというのだから困る。
俊輔は母親の気持ちを理解しながらも、おかしくなっていく。
結局、その反動で小学3年生の頃から不良化し、子供にも拘らず、無頼の生活を送るようになる。万引きを繰り返し、家の金を持ち出し、小学校をサボって映画館に入り浸り、歓楽街に出入りして多くの女性たちと享楽的な生活を送ったらしい。
それが中学入学前の子供の頃の話しなので、空いた口が塞がらなくなる。
非行を繰り返し、うつ病となって精神病院へ
12歳頃うつ病になり、自殺未遂を繰り返し、精神病院に3回も入院。高校尋常科に入学したものの、2年生の夏に退学となる。翌年に中学校に編入するが、結局しばらくして中退してしまう。
つまりこの良家のボンボンは、小学生にして放蕩の限りを尽くした上で、うつ病になり、精神病院への入退院を繰り返し、中学校を中退するというとんでもない少年だった。
その不良少年の鶴見俊輔が日本でも屈指の哲学者にして反戦運動を繰り広げる進歩的知識人になって、時代に大きな足跡を残すわけだから、人生は誠に驚きと可能性に満ちている。
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著名な父への失望と軽蔑
父親に対して俊輔は全く評価していない。対談の中でも、ぼろっクソにこき下ろしている。俊輔は父親を「一番病」と断言して手厳しい。
父親の鶴見祐輔は、超優秀なエリートだったらしく、学校の成績は常に一番。東大の卒業時に2番になったことで挫折する。
こういうエリート官僚に多い一番病が始末に置けないとこっぴどく糾弾して止まない。学校の成績や組織の中で一番になることだけが目標なので、自分の考えも信念もなく、戦前は大政翼賛会のトップになり、戦後は何も考えずに、時代に迎合し、自分が総理大臣になる気でいたと冷静かつ辛辣に自分の父親を分析する。
このあたりのことは米原万里の書評にあるとおり(上述)だ。
鶴見俊輔のエリートへの反逆が対談を通じても痛いほど伝わってきて、いかにも小気味良く、こういう超エリート一家から、それを否定し、反逆しながらも、別の方向で自力でトップを極める鶴見俊輔には、脱帽するしかない。
本当にすごいなと感服させられるだけではなく、こんな奔放な生き方を貫きながら、自らの実力だけでトップに上り詰める鶴見俊輔を心の底から羨ましくなってしまう。
放埓で中学中退の不良少年が、ハーバード大学へ
不良となって非行を繰り返し、やがて精神に異常をきたす。重いうつ病で精神病院への入退院を繰り返すのだから、半端ではない。結局は中学中退。だが、ここからがすごい。
日本の小学校も碌にいかず、精神を病んで中学校を中退した不良少年が、何とアメリカのハーバード大学に入学し、優秀な成績を残すのである。
1937年に父に伴われて米国へ。米国滞在中に、都留重人と面識を得て生涯の師となる。その後、単身渡米し、マサチューセッツ州コンコードの全寮制中等学校に入学。
1939年、16歳のとき、大学共通入学試験に合格してハーバード大学に進学。哲学を専攻すると一気に超エリートコースを駆け上がっていく。類い稀なサクセスストーリーである。
一筋縄ではいかない屈折した戦争体験
太平洋戦争真っ只中の1942年8月に日本に帰国。陸軍に召集されるのを避けるため、海軍軍属のドイツ語通訳となり、ジャワ島に赴任。ジャカルタの在勤海軍武官府に2年間勤務。連合国のラジオ放送を聴いて情報をまとめ、部外秘の新聞を作成する業務に従事。カリエスが悪化し、1944年12月初に日本に帰還。
この時に軍の士官用の従軍慰安婦の調達に携わっており、このときの経緯を上野千鶴子から厳しく追及されることになる。
この時の鶴見俊輔の考え方というか、言い分が非常に興味深い。これは是非ともじっくりと読んでほしいところ。上野千鶴子の突っ込みも何の忖度もない容赦ないものだけに、ハラハラドキドキものだ。
戦後の文筆活動
戦後、鶴見は結核の療養を続けながら、姉・和子の尽力で、丸山眞男、都留重人らと「思想の科学研究会」を結成し、雑誌『思想の科学』を創刊。更に思想史研究を行い、『共同研究 転向』を刊行した。
本書の魅力の一つは、鶴見俊輔の当時の知識人に対する人物評価である。これが同時代に同じ活動を繰り広げた仲間でなければ分からない鶴見ならではの視点から語られるのが実に興味深く、思わず引き込まれる。
この対談は、鶴見俊輔が本音で語る戦後の知識人たちの、鶴見ならではの人物評が最高の読み物となっている。
安保闘争とベ平連
その後は、安保闘争とベ平連の活動に精力的に取り組んでいく。
1960年5月に新安保条約が強行採決され、親交のあった東京都立大学教授の竹内好は強行採決に抗議し、辞表を提出すると、鶴見も激しい憤りを感じたとして、東京工業大学に辞表を提出。
政治学者の高畠通敏らと合流し、デモを重ね、日米安全保障条約改定に反対した。
1965年にアメリカが北ベトナム爆撃(北爆)を開始し、反戦運動が高まると、高畠と共に小田実と会い、「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」(後の「ベトナムに平和を!市民連合」=「ベ平連」)を結成し、精力的に活動を繰り広げた。
晩年には、大江健三郎や小田実らと共に「九条の会」の呼びかけ人となった。
これらの波乱万丈の生き様が、戦後世代の実に鋭く容赦のない聞き取りによって、実にありありとクローズアップされていく様は、本当に手に汗握る程のおもしろさである。
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小熊英二の冷静かつ知的な迫りが見事
鶴見俊輔が、ここまで語ってしまっていいのかという程に、何でもありのままに語ってくれたのは、偏に質問する側の真摯さと、理解の深さによることはもちろんだ。そういう意味で、聞き取り者としての上野千鶴子と小熊英二の功績は大きい。
上野千鶴子は、戦時中の鶴見の従軍慰安婦への対応に対して、上述のとおり、そこまで突っ込むのかと思わせる程、執拗に食い下がり、さすがに小熊英二が間に割って入るようなシーンもあるのだが、聞く側もそこまで突っ込んでこそ、これだけの濃密さになったと思う。
感心するのは小熊英二である。上野千鶴子が時に感情的になりながらも、小熊英二は終始、冷静沈着、それでいて実に適格に鶴見に肉薄していくのである。鶴見の思想や考え方、実際に行われたことを正確かつ詳細に知りながら、それを前提に更に知的に迫る姿は、本当にすごいと感服。
鶴見俊輔も、何でも知っていて調べてある小熊英二から鋭く追及されると、本音で答えるしかない。そういう場面がしばしば出て来て、こうしてこの名著が成り立ったと言うしかない。
鶴見俊輔のことはあまり知らなかった
僕は、鶴見俊輔のことは、本書を読むまであまり詳しく知らなかったと正直に告白しておく。名前はもちろん知っていて、どんなことをやってきた人なのかもある程度知っているつもりだったが、本書を読んで何一つ知らなかったということを思い知らされた。
恥ずかしながら、そもそも鶴見俊輔の本は1冊も読んだことがない。
鶴見が信頼し、交友のあった丸山眞男や竹内好のことは非常に関心があって、色々な本を昔から読んできたし、丸山眞男は僕が最も興味を持っている研究対象の一人である。
だが、肝心な鶴見俊輔のことはほとんど知らなかった。
岩明均の「寄生獣」への大絶賛で親近感
ただし、思わぬところで非常に親近感を持つと同時に驚嘆させられたことがあった。
僕が大好きな岩明均の漫画「寄生獣」を大絶賛していたからだ。「寄生獣」は傑出した名作で、僕は夢中になって読み耽った。本当に素晴らしい作品だと思っている。
それを後押ししてくれたのが何と鶴見俊輔だった。単行本の最終巻(第8巻)の巻末に、何と他ならぬ鶴見俊輔が作品解説を寄せていて、これがもう大絶賛なのである。
「この本」として、こう書いている。引用する。
「私は八十歳になるが、生涯に読んだもっともおもしろい本のひとつとして、「寄生獣」をあげたい。(中略)
「寄生獣」を読んだのは、十年くらい前だった。町の本屋で十冊買ってきて、夕食後に読みはじめた。二、三冊読むうちに、この世界にとらえられた。夜もふけてきたし、心臓の手術をしたあとだから、寝たほうがいいと思ったが、それは理性の判断であって、それに従いたくない。倒れてもいい、このまま読みつづけたい。十巻全部を読み終わった時には、夜があけていた。(中略ー詳しい作品の批評)
この本を七十歳の時に読んだ。それから十年たって、今、八十歳。これまでに、これほど熱中して読んだ本は、あった。低い書棚から一冊、岩波文庫を取り出して、しゃがんだまま読みだして、読みはじめたときには外はあかるかったが、読み終えた時に、外は暗くなっていた。ツルゲネフの『ドミトリ・ルーディン』という本である。終わりのところで、ロシア人のルーディンが、フランスの警察に撃たれて死ぬ。「ポーランド人が死んだぞ」という声が、仲間からあがる。ルーディンはポーランド人ではない。仲間からも何者であるかを知られずに死ぬ。そいういう生き方もあると思った。そのとき私は十五だったから、しゃがんだまま一冊の本を読み通せた。今はそういうことはできない。
やがて寝たまま、本を持ち上げる力もなく、まぶたに思いうかべる本は、なにか。『ルーディン』が六十五年間私の中にのこっているように、『寄生獣』も、そのとき、私の中に残っているのではないだろうか。」
鶴見俊輔とは、こういう人物なのである。
山上たつひこのあの「がきデカ」を高く評価したことでも知られており、本書の対談の中でも「がきデカ論」が熱心に繰り広げられ、これは注目だ。
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これ程の濃密な対談は滅多にない必読の名著
本当にこれは対談本として空前の高みに達した稀有な一冊としか呼びようのないものである。
戦後知識人の時代との対処の在り方、平和運動などの政治活動の表も裏も全て語られてしまうすごい本。
どうか実際に手に取って、読んでいただきたい。決して難しい本ではない。ここは鶴見俊輔の類い稀な包容力のある人柄が反映しているのであろう、時にユーモアを伴いながら、波乱の93年の鶴見の人生を本人の口から聞くことで、戦前・戦中・戦後の日本の歩みを追体験することは、かけがえのない読書体験となるはずである。
必読の名著とお勧めしたい。
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戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く [ 鶴見俊輔 ]
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