【中編】から続く

その後、田中信昭から直接の指導を受けた

それから更に約15年が経過する。弁護士の夢を諦めて、再び合唱の世界に戻った30代後半。

僕は三重県の津市にある「うたおに」という合唱団で歌っていた。僕が東京に転勤になった後、「うたおに」はどんどん実力を付けて、何度か全日本合唱コンクールの全国大会にも出場することになったので、合唱に詳しい方なら、このユニークな名前の合唱団のことはご存知だろう。

柴田南雄の名曲「追分節考」の指導

うたおにが定期演奏会の客演指揮者として田中信昭を招聘することになり、しんしょう先生の十八番である柴田南雄の「追分節考」の指導を受けることになった。

生の田中信昭にお目にかかるのは初めてのことだった。

こういう時の客演指揮の指導は、時と場合によるが、東京から三重県まで来てもらうことを考えると、本番までにホンの2〜3回というのが、一般的である。

憧れ尊敬していたあの手紙を書いてくださった田中先生に直接お目にかかれるということで、僕はいつになくひどく緊張した。

とにかく印象は、めちゃくちゃおっかない厳しい人というものだった。

柴田南雄の「追分節考」も非常に難解な作品で、特にこの作品はシアターピースと呼ばれるアドリブを全面的に取り入れた大胆な問題作。

もちろん田中信昭の委嘱で誕生した意欲作で、一時、田中信昭はこの曲の普及に情熱を傾けていた。

それだけに、練習は厳しさを極めた。

15年前に直接手紙のご返事を送ってくれたあの憧れの田中信昭先生が自分の目の前にいる!

という信じ難い光景を目の当たりにし、とにかくみっともない姿はさらせられないという思いも加わって、僕はひどく緊張していてしまい、上手く歌うことができなくて、散々な思いをした悪い記憶が残っている。

先生は僕への手紙を覚えていなかった

思い切って練習後に、田中先生に声をかけて、あの手紙を見てもらった。

「田中先生、僕は約15年前の高校時代に先生から直筆のお手紙をいただいて、それをずっと宝物にしています」と言って、実際に例の手紙を先生に差し出して、見てもらった。

すると、先生は僕の顔をまじまじと見つめて、こう言った。

「そうか。私の手紙だ。でも、覚えていない」と。

便箋の最後にも封筒にもしっかりと田中信昭と書いてあるので、これが田中信昭が書いてくれた手紙であることは間違いない。

先生もそれを認めながらも、この返事を書いたことは覚えていないという何とも残念な話しとなった。

そりゃあそうだ。もう15年も前のこと。合唱界の第一人者として日本中を駆けずり回り、精力的な指揮活動をしている超多忙な先生が、田舎の一高校生に送った手紙のことを失念していても、それは当然なことだっただろう。

結局、先生とはこの手紙を巡ってゆっくり話しをすることもなく、あの時の僕は正直言って少しガッカリした。

「残念!」

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今はあらためて感謝の思いが込み上げる

それから更に数十年という年月が流れ、僕の思いは今ではすっかり変わっている

直接お目にかかった時には、覚えてくれていなかったのか!現物の手紙を見ても思い出してくれないのか!

とかなりガッカリした僕だったが、今は全く違う。

もちろん覚えていてくれれば、それは最高だっただろう。滅多にない感動の出会いとなったことは間違いない。

だが、今では、先生があの手紙を覚えていてくれなかったことに、却って意味があるように思え、ある考えを抱くに至っている。

本音の普遍的なことを伝えてくれた

あの手紙に書いた内容は、先生にとっては特別なことではなく、普段から普遍的な信念として考えていることそのものだったんだと。

個人の悩みごと相談とか、特別なことを書いたのなら、覚えていてくれたかもしれない。

僕の依頼は特別なことではなく、その返事には、「田中信昭が普段から考えている音楽に関してのご自身の普遍的な信念をありのままに書いてくれた。

だから、覚えていない。

でも、逆に書かれている内容は正しく田中信昭の信念、哲学そのもの田中信昭の音楽への不動たる強い信念だ。

今はそう思えて仕方がない。

それを一介の信州の片田舎の高校生に直筆で便箋3枚に書いてくれたのだ。

こんな感動があるだろうか。あらためて感謝の念を禁じ得ない。

そんな田中信昭先生が逝去されてしまった。

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先生からの手紙は更に新たなドラマを生んだ

まだまだ続く田中先生からもらった感動の直筆手紙のエピソード。

次は田中先生から直筆手紙をもらってからちょうど30年後の出来事だ。

僕が高校3年時に母校の合唱団である音楽部の文化祭における定期演奏会で演奏した高田三郎の「わたしの願い」。

当日の演奏は高く評価され、「知る人ぞ知る感動的な名演奏」となった。

「わたしの願い」の楽譜
「わたしの願い」の楽譜。再演時には絶版となっており、受注発注した。残念なことだ。
最終ページの一番最後に、初演の田中信昭と東京混声合唱団のタイトルがある。
最終ページの一番最後に、初演の田中信昭と東京混声合唱団のタイトルがある。

 

その観客(聴衆)の中に、ひと際この「わたしの願い」の演奏に感動した同級生がいたのである。

そのことは当時の僕は全く知らなかった。それが30年後に思わぬ形で明らかになる。

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母校の「愛のリレー」で「わたしの願い」再演企画

僕の高校の母校では、卒業後30年目にその学年で「愛のリレー」という行事を毎年開催し、30年目の卒業生と現役高校生とが交流を深める企画が行われている。

卒後30年目に現役の高校生を巻き込んで、その学年で独自の企画を立てて、後輩の現役高校生と交流を図るというセレモニーである。もう何十年も続いている。

僕が卒後30年目に当たる2004年、ちょうど20年前だ。我々の学年で何をやるかというときに、何と僕が指揮者として文化祭で演奏した「わたしの願い」を再演しようというちょっと信じられないような企画が浮上した。

我々の学年のOB会長のN君が、30年前の僕が指揮した文化祭での演奏会の「わたしの願い」の演奏を実際に聴いていて、あの演奏には「めちゃくちゃ感動した。高校時代の3年間を通じて最高の感動だった」と絶賛することから始まった。

N君はこう言う。

N君の30年前の「わたしの願い」の大絶賛と再演への情熱

『特にメインの「わたしの願い」を聞いて、涙がボロボロと流れ落ちて止まらなかった。
あの演奏を聞いたことが、高校時代の最も忘れ難い、感動的な体験の一つ。
あれを聞いて、その後の人生が変わってしまった。』

「愛のリレー」の企画の検討が始まったときに、やるとすれば、あの「わたしの願い」の再演しかない。

今度は聞く側ではなくて、歌う側でステージに立ち、私があの当時味わった感動を、はるか後輩である今の現役の高校生たちにも体験させてあげたい。

30年目にして明らかになる真実。そしてそれを再演させようとする途方もない情熱。

僕はその当時、東京で働いていて、「愛のリレー」なんていう母校の企画そのものも全く知らなかった。

ある日、N君から電話があって、「これこれこういう次第。とにかく僕は大変な感動を受けたので、あの歌を今の高校生に聴かせたい。きっと深い感動を与えることができる。ついては、○○君、定期的に松本に来てもらって合唱を指導して、「わたしの願い」を指揮してほしい」と。

僕はぶったまげた。会長のN君はもちろん同級生だったが、高校時代、特別親しかったわけでなく、彼は野球部だったし、僕の演奏を当時聴いてくれたことさえ知らなかった。

N君からその当時にそんな話しを聞いたこともなかった。

実はN君も僕と同じ同志社に進学し、2人で京都で下宿をしていたわけだが、京都時代に親しくしていたわけでももちろんない。

そんな僕とは離れたところにいたN君がどうして「わたしの願い」などという変わった合唱曲に、そこまで拘ったのか?不思議と言えばこれ以上不思議なことはない。

最初は人の悪いジョークかと思ったが、熱心に語る彼からその真剣さが痛感されて、僕も大いに感動し、それならばと全面協力することになった。

全くこの世には突然、何とも驚嘆すべきことが起きるものだ。

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先生の手紙がみんなの心を動かした!

N君の発案は思いの外、同学年の支持を得たが、最終的にこの案でいくかどうかは流動的だった。

最大の課題は、この「わたしの願い」を歌うという企画は、当時の音楽部のメンバーで再演するということでなく、卒後30年目を迎えるOBOGの全体で歌うという壮大な企画だった。

ところが、ほとんどのメンバーが合唱曲なんて歌ったことはない、合唱なんて経験したことがないメンバーばかりだった。

そんな48歳になる合唱ド素人を集めて、演奏会を開催する。これはほとんどジョークに近い実験みたいなものだった。

「わたしの願い」は難しい曲だったので、ド素人を相手に演奏会を開くには最低でも10回のアンサンブル練習が必要だと思われた。

僕が東京から松本に通って練習をするとしても、そもそもそんな企画、実現するのか?

最終的にどうするかを決定する話し合いの場に、僕も東京から参加した。

そこではかなり否定的な意見も出た。

N君からの要請を受けて、実行委員のメンバーに「わたしの願い」のCDを聴かせたのが失敗だった。「こんな訳の分からない難しい曲はやめよう」と拒絶感が広がった。

僕もそんな中で無理してこんな企画を進めることはできないと、半ば諦めたが、最後に念のため自分の思いを素直に語ってみた。

『今回合唱をやろうという話しになったのは、30年前、合唱に縁のなかった野球少年だった高校生が、「わたしの願い」を聴いて非常に感動し、30年たった今、あのときのステージを再現し、今の現役高校生に30年の時を経て、同じ感動を伝えようとすることが出発点だったので、合唱をやるとしたら、感動の原点である「わたしの願い」でなければ意味がない。でも皆さんの賛同を得られない以上、それは仕方がないこと』

続いて、N君が、僕も想像していなかったことを静かに語り始めた。

それが田中先生からの例の手紙の話しだったのだ。僕はみんなの前で、先生からの手紙を読み上げた。

どうしてあの時、N君が、みんなにあの田中先生からの手紙の話しを突然し出したのか、良く分からないが、何故か、この手紙はみんなに深い感動を与えた。

二人の話で、再び会場の雰囲気が一変し、気が付けば、みんな「わたしの願い」をやろう。やってみようと言い始めた。

こうして「愛のリレー」で「わたしの願い」を演奏することが決定され、約1年後の感動的な演奏会が実現することになった。

田中先生からのあの手紙の力だった。

あの一通の手紙が、みんなの心を動かした瞬間だった。

何がみんなの心を動かしたのか、明確な説明はできないが、あの田中先生の手紙が不思議な力を発揮して、みんなの心を動かしたことだけは事実だった。

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愛のリレー合唱団は大成功裏に終わる

10ヵ月ほどに及んだ練習は毎回、非常に充実した楽しいものとなり、僕は毎回心を弾ませて松本まで通った。

交通費も予算計上してもらったが、もちろん限られたわずかなものしか出してもらえないので、特急あずさを毎回使わずに高速バスを利用することも多かった。

本番前に練習に励むメンバーの様子を伝える有名な地元紙信毎の記事
本番前に練習に励むメンバーの様子を伝える有名な地元紙信毎の記事。

 

結局、卒後30年目を迎えた僕の同級生たちに加えて、30年前の演奏会当日にオンステした音楽部メンバー、当時の先生たちや今の現役の先生有志、一番嬉しかったのは、僕の直系の後輩に当たる現役の音楽部の部員たちも加わって、総勢80名以上の大合唱団となった。

こうして、母校の伝統行事の愛のリレーで、高田三郎の「わたしの願い」が30年ぶりに再演された。

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当日の演奏の様子を写真で

当日の写真を見てもらおう。

演奏に先立って、今回の「わたしの願い」再演の経緯について説明する僕の写真①
演奏に先立って、今回の「わたしの願い」再演の経緯について僕が説明した①。30年前に田中先生からもらった手紙のことももちろん話させてもらった。
演奏に先立って、今回の「わたしの願い」再演の経緯について説明する僕の写真②
演奏に先立って、今回の「わたしの願い」再演の経緯について僕が説明した②。田中先生からの手紙のこと、N君の感動と再演の挑戦を語りかけた。
当日の演奏の写真①
当日の演奏の写真① 指揮をしているのが僕だ。
当日の演奏の写真②
当日の演奏の写真② 指揮をしているのが僕だ。
演奏会当日の写真。N君の歌う姿。
演奏会当日の写真。N君の歌う姿。写真中央、向かって右から3人目がN君だ。
演奏終了後、指揮者の僕がN君と手を組んで掲げるシーン。
演奏終了後、指揮者の僕がN君と手を組んで掲げるシーン。
在校生代表から花束を受け取るN君の写真
最後に在校生代表から花束を受け取るN君の姿。

 

会場も来年の企画では、母校の講堂や体育館などを使っていたが、この時はそれではもったいないのと、そもそもそんな大人数は入り切れないということもあって正式なホールを手配することになった。

新しくできたばかりの「まつもと市民芸術館」を使わせてもらえる幸運にも恵まれて、非常に感動的なものとなった。

まつもと市民芸術館の客席。現役高校生たちが聴きに集まって来ている。
まつもと市民芸術館の客席。現役高校生たちが聴きに集まって来ている。

 

これも田中信昭先生のあの直筆の手紙があったればこそである。

感慨が尽きない。

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地元新聞でも報道された

この「愛のリレー」の合唱の様子は、地元の新聞でもしっかりと報道された。

演奏会を伝える新聞記事①
地元紙(信毎)に掲載された新聞記事①。N君の名前がフルネームで載っている。匿名が台無し(笑)。
松本市のタウン誌に掲載された記事。かなり詳しく伝えてくれている。こちらでもN君の名前がフルネームで載っている。匿名が台無しだ(笑)。

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手紙が紛失してしまう。痛感の極み

最後にとんでもないエピソードを披露させてもらうことになる。

あれだけ大切にしていたかけがえのない宝物だった田中先生からの手紙が、現在僕の手元にはない。

紛失してしまったのだ!

あの愛のリレーの企画の最終決定の場で、みんなの前で読み上げて以来、あの手紙がいつの間にかなくなってしまった

どれだけ探しても出てこない。この悲しみを言葉では言い尽くせない。

どこに行ってしまったんだろう?

もっとも、なくなってしまうことは考えられず、どこかに埋もれてしまったのだろう。大切に扱っていただけに、もっと特別なところに保管したのかも知れない。

我が家のどこかに埋もれているに違いないと信じているのだが、果たしてどうだろうか?

いつか徹底的に探し出したいと思っている。本や楽譜や様々な資料などで埋め尽くされた部屋なので、探して出すのは容易なことではない。

田中信昭先生がお亡くなりになられた今、あの直筆の手紙をあらためて、もう一度読ませていただきたかったのに、それが果たせないことに涙が込み上げる

あんなに大切にしていた手紙は、どこに行ってしまったのか?

痛恨の極みとはこのことだ。

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田中信昭は僕にとって神のような存在

こんな様々なエピソードに彩られた田中信昭先生との邂逅。

あらためて田中信昭の偉大さに頭が下がる。

あんなに大きな業績を残して多忙を極めていたはずの田中先生が、どうして一介の田舎の一高校生に、あんな丁寧な手紙を直筆で書いてくれたのか?

96歳の大往生を迎えられた今、あらためて心から感謝したい。

あの先生のお手紙は田舎の高校生に、言葉に尽くせない感動をもたらし、その後の人生を変える強い影響を及ぼした。

僕にとって神のような存在だった。

合掌(合唱)

あの田中信昭先生が亡くなってしまった。感無量。

96歳とは言いながらも先日まで元気でいただけに、残念でならない。

あの数十年間に及ぶ感動を思い出しながら、合掌(合唱)。

 

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