合唱ができないことで、新たな苦しみに襲われる
こうして僕らの合唱団は練習を中止して3カ月近く経過した。月に2回しか練習のない僕らは、2.22(土)以来6回連続して練習が中止となり、5月の練習も正式に中止が決定。この後も更に中止が続く公算が高い。いつから練習が再開できるか?練習再開の目途は全く立たない状態だ。
これは本当に辛い。断腸の思いである。正直言って、かなり絶望的な状況だ。僕は指揮者なのである。練習が命だ。
練習をしたくてしたくてたまらない人間なのである。それが練習できない。どうしても練習できない。泣いても叫んでも、練習ができない。どうしてもダメなんだ。
これだけ練習ができなくなってくると
そうなってくると、絶望するしかない。我慢できない。気が狂いそう。だんだんそうなってくる。
再開の目途はつかず、本当にこれは絶望的な状況だ。一体どうしたらいいんだろう!?
怒りの矛先の向けどころもなく、本当に辛い日々が続く。絶望的な気分に陥ってくる。
そして、ここまで絶望的な事態の打開ができない、打ち破ることができないということになってくると、
この絶望からの防衛本能が自然と働いてくるのである。
ここで思い起こされるのは、あのアルベール・カミュの「ペスト」である。
「ペスト」の中盤に想像を絶する恐ろしい描写が出てくる。ペストの悲惨さ、死んでいく人間たちの悲惨さを描いた部分ではない。もっと精神的な部分、人間の、ペストに取り囲まれた家族や愛する人々と引き離された市民の心の変化なのである。群衆心理だ。
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【カミュ:ペストより】(新潮文庫:宮崎嶺雄訳)
「市民たちは事の成行きに甘んじて歩調を合わせ、世間の言葉を借りれば、みずから適用していったのであるが、それというのも、そのほかにはやりようがなかったからである。彼らはまた当然のことながら、不幸と苦痛との態度を取っていたが、しかし、その痛みはもう感じていなかった。それに、たとえば医師リウーなどはそう考えていたのであるが、まさにそれが不幸というものであり、そして絶望に慣れることは絶望そのものよりも悪い絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪いのである。(中略)
ペストはすべての者から、恋愛と、さらに友情の能力さえも奪ってしまったペストはすべての者から、恋愛と、さらに友情の能力さえも奪ってしまった。なぜなら、愛は幾らかの未来を要求するものであり、しかもわれわれにとってはもはや刻々の瞬間しか存在しなかったからである。」
いやあ恐ろしい。カミュの洞察力の鋭さに絶句。でも、本当に思い当ってしまうのだ。みんなは大丈夫だろうか?
『絶望に慣れることは絶望そのものよりも悪い』
絶望に慣れてくるってことは、確かにある!
練習がなくなって、最初の2~3回はものすごいショックで、一刻も早く練習の再開をと切望したが、それが4回、5回となり、やがてそう簡単には再開が望めないということが分かって来る。そしてそれが確信にまで至ってくる。そうすると信じられないことだが、
僕は次第に、少しずつ絶望に慣れてきてしまったのだ。そんな気がする。
しかも、僕の場合は、幸か不幸か、絶望と悲しみの大きな穴を埋めてくれるものは、山のようにあったのだ。
1.合唱以外のクラシック音楽を聴く。CDは何万枚も手元に揃っている!
2.映画を観る。ギンレイホールに通えなくても、DVD・ブルーレイなど膨大な量の映画ソフトが手元にある!
3.本を読む。あらゆるジャンルの読むべき本がそれこそ無尽蔵に手元にある!
4.そして何と言っても、このブログ書きがあった。WordPressへの移行という大作業もあった。
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こうして僕はいつの間にか、合唱ができないという絶望に慣れてきてしまった。
『絶望に慣れてしまうことは絶望そのものよりも悪い』
カミュの言うとおりに、いつのまにかこの絶望的な状況に諦めというか、絶望しつつも、何となく仕方がないことだと受け入れてしまったのだ。
自己防衛本能も働いて、絶望から、ともすると活路を見出してしまう。僕にはその活路は無尽蔵にあり、特別の努力をしなくても、他に夢中になれるものが多過ぎた。
合唱は止めていても、これでもまだ時間が全く足りない程だったのだ。
それとこれは非常にデリケートな問題だが、一方でこんな思いも少し感じ始めていた。
合唱団のメンバーの心も僕から離れていく。それをかすかに感じ取り、やがてヒシヒシと感じるまでになってきた。
僕は4時間という、一回当たりの練習で自分に与えられた時間の中で、全力を傾注し、自分の持てる力の全てを出し切って、時には厳しく、時にはくだらないジョークを乱発させながら、情熱的にみんなを引っ張っていくことには、ある程度は自信があった。
合唱の指導には、ある意味で天職的なものを感じていた。
合唱の練習さえあれば・・・。
今までだってメンバーとの間に少し気まずいものがあった場合でも、この全力投球の4時間の練習を通じて、そんなものを吹き飛ばしてしまうことができたのではなかったか。
「合唱の練習そのものが全てを吹き飛ばし、みんなが一体になれる!」そう信じていた。
いわば「竹重マジック」のようなものでみんなを引っ張っていく自信が、少しはあったのだ。
歌うことは楽しい。みんなで心を合わせて一つの歌を歌い上げることで、少しばかりのわだかまりや人間関係のギクシャクも洗い流せてしまう。それが
歌の力でもあり、合唱の力でもあり、前に立ってみんなを指導する指揮者の力でも、特権でもあったのだ。
これだけ練習から遠ざかってしまうと・・・。
それがこれだけ実際の練習から遠ざかると、練習時の魂の高揚、全てを洗い流してしまう練習での一体感が、味わえない。何となく停滞してしまうのだ。そして悲しいかな、メンバーの気持ちが少しずつ離れていってしまう。特に指揮者の存在感が薄くなって、心が離れていってしまう。そんなことはないだろうか?
やっぱり僕らは一緒に歌ってみてなんぼ?なのである。実際にみんなの前で情熱的にガンガンやってこそ、僕の真価も伝わる。その機会がずっと奪われたままなのだ。
その機会がこれだけ続き、しかも再開の目途がつかないということになってくると、どうしても気持ちが離れていってしまう。本当に辛く、残念なことだが、これだけ仲のいい合唱団でも、そのことを感じざるを得ない。
これはもしかしたら、僕だけが感じている杞憂なのかもしれないのだが・・・。
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ここで立ち止まり、振り返ってみる
自分自身が合唱がなくても他に夢中になれる対象が無尽蔵にあって、それほど困ることもなく、この「合唱なしの生活」に慣れ、何となくメンバーとの距離を感じ始めてしまうのが、ふと立ち止まってみる。
う~ん。でも、これってどうなんだろう??
ここで立ち止まって、自らを振り返ってみる。
ダメだ、違う。これではダメだ。
やっぱり合唱が必要だ。
スコンと空いた大きな穴。この絶望感は僕の場合は他の楽しみで埋め合わせることが可能で、現にできてきたのだが、それではダメではないか。あらためてそう気がついた。
やっぱり仲間が必要なのだ。一緒に苦楽を共にする仲間がいないと、どうしても行き詰まってしまう。
確かにクラシック音楽を聴いて、映画を観まくって、本を片っ端から読んで、ブログを書きまくって、それこそ寸暇を惜しんでそれらの活動に没頭して、その結果、寝る時間がなくなってしまう程に夢中になっても、やはり
何か非常に重要な部分が欠落しているような気がしてくる。満たされないのだ。
他に夢中になれる対象は、確かに僕を救ってくれたのだが、やはり一番大切な何かが満たされない。
心の空白感は埋まらないどころか、むしろドンドン広がってくる感じなのである。
合唱の神様からの試練だろうか!?
これはひょっとして「合唱の神様から試されている」。そんな気もする。ここで合唱を忘れたら、お前には大きな苦しみを与えてやるぞ、それでもいいのか?と。
喉元に匕首を突きつけられているような気さえする。
他のものでは満たされない何かが合唱にはある。クラシック音楽を聴いたり、映画を観たり、本を読みまくっても、ブログを書きまくっても、どうしても得られない何かが合唱にはあるのだ。合唱にしかない何か特別な力があるに違いない。
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合唱と仲間たちを決して忘れはしない
そのことを痛感させられる。僕はやっぱり合唱は忘れないぞ。
あの仲間たちとの掛け替えのない楽しみは、決して忘れない。強くそう思う。
だが、とにかく活動を再開できないことには、どうにもならないことも事実。
望んでもどうしても叶わないとき、人は諦めてしまうことが往々にしてある。確かに僕も、僕たちも試されているのだ。
この試練をみんなで乗り越えよう!
正に試練の時。近い将来確実に合唱を再開できる日を実現するためにも、今は耐えるしかないのだろう。何とか乗り越えたいと決意を新たにした。
最後にまた言わせてもらう。
新型コロナのバカ野郎!!
一刻も早い新型コロナの収束=終息を祈るばかりである。