3カ月間以上苦しみ続けた脊柱管狭窄症から遂に快復 

長くて実に辛い3カ月間だった。脊柱管狭窄症による坐骨神経痛である。

まさかここまで時間がかかるとは思っていなかった。この3カ月間、多少改善することはあっても、一進一退。ズッと病院にかかり続け、キツい薬を飲み続けるも、一向に良くならず、一時は絶望にかられ、自分のこの足(脚)は永遠に治らない、ズッとまともに歩けるようにならない。足に力が入らずに、一段たりとも階段は登れるようにならないだろうと、心底落ち込んでいた。

それがここに来て、一挙に改善し、見事に快復してきたのである。

この3カ月間以上に及ぶ重篤な脊柱管狭窄症との闘病の経緯を一挙に公開する。

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どんな症状で、どんな経緯を辿ったのか?

典型的な脊柱管狭窄症による坐骨神経痛であった。

最初に異変を感じたのは、昨年(2021年)9月の連休明けからだ。9月の最終連休、新型コロナの第5波の真っ只中ではあったが、徳島と札幌にいる長男と次男がそれぞれまだ幼い娘、僕から見たら孫に当たるわけだが、連れて東京まで遊びに来てくれた。

その間、夜は息子達と大いに飲んだわけだが、その期間中、突然、臀部に変な痛みがあった。身体の向きによって何とも言えない痛みがあって、いかにも嫌な予感がした。これ、一体何だろうと息子たちと酒を酌み交わしながらも気になっていたが、ハタと思い当たる節があった。

僕は以前、脊柱管狭窄症と指摘されたことがあって、治療を受けていた経緯がある。その時の痛みと同質だったのだ。

だから、僕は「あっ、これはまた前にやった脊柱管狭窄症がまた起きたんだ」と直ぐに自覚はできたのである。

数日後に全く歩けなくなっってしまった

後で詳しく書くが、以前の脊柱管狭窄症の際には、「リリカ」と呼ばれる有名な痛み止めを服用して、たちまち痛みから解放された経験があり、その際にもらってあったリリカが残っていたので、それを飲めばかつてのように直ぐに痛みは引いてしまうと信じていた。

早速、リリカを飲み始めた。

ところが、一向に痛みは引いてこない。何の効果もなく、日増しに痛みが増幅してくる感じだった。

不思議なことに今回はリリカが全く効かなかったのだ。「あれ?変だな。前の時は直ぐに効いて、痛みはすっかり消えてしまったのに」と不思議でならなかった。

それから数日後のことだ。

何と立つことも、歩くことも全くできなくなってしまった。激痛に襲われて真っ直ぐに立てない。立てないくらいなんだから、もちろん歩くことなんか全くできないという最悪の事態に見舞われてしまったのだ。

本当にまいった。仕事はもちろん休ませてもらったが、どうしたものか?どこの病院に、いつかかるべきか。それさえもハッキリ決められない状況に焦りとただならぬ不安に襲われる。

どうしたらいいのか?

脊柱管狭窄症の病状のイラスト図
とにかく広範囲が痛む。両足が痛むことを想像してほしい。全く立つことも歩くこともできなくなってしまう。

過去の脊柱管狭窄症の時は

そこからの辛い日々を振り返る前に、そもそもの僕の過去の脊柱管狭窄症のことを整理してみる。

正式に脊柱管狭窄症と診断され、治療を受けたのは3年ほど前のこと。

但し、その前にも脊柱管狭窄症と正式に病名が付いて、治療をしたわけではなかったが、それに近いことが実は7年ほど前にあった。

僕が仕事の上で状況が一変する我が人生の一大事だった時期だけに忘れようもない。

社会的にも大きな話題となった僕が所属していた全国規模の大きな組織が新たな組織として再編成されて、その時の経緯と進め方にどうしても納得できなかった僕は、その新しい全国組織を一早く退職してフリーとなり、単身で福岡県の朝倉に勤務し始めた時代のことだった。かれこれ8年近く経つ。

あの時はとにかく左足の太もも部分だけの不調だった。

他の部分は何ともなく、今回のように典型的な坐骨神経痛ということで、両足のふくらはぎ辺りから臀部に至るまでの全体が、姿勢を変えたり、身体の角度を少しでも変える度に、電流が流れるような激痛に襲われる症状とは、随分違っていた。

左足の太ももが痛っ苦しくて我慢できない

当時、僕の勤務先は朝倉市だったが、筑紫野市という福岡市の衛生都市のような便利なところに住んでいて、車で通勤していた。運転時間は20分間から30分間程度だった。その運転の際に一番症状が出た。

運転している最中に左足の太ももがとにかく辛くなってくる。痛いというのとはちょっと違う。何とも重っ苦しくなってきて辛いのだ。そのままの姿勢でいると我慢ができないくらいに辛くなってくる。

一度、その独特の苦しさが始まるともうどうやっても楽にならない。姿勢を変えるしかないので、運転中にはどうしようもなくなってしまう。

何故か運転中に限って発作に襲われる。

職場は病院なので、整形外科に受診するのだが、あの時は明確な異常は見つからず、精神的なストレスではないかと言われて様子を見ることになった。

記憶が定かではないのだが、それでも痛む時には飲んでと言われて薬をもらったことがある。それが他ならぬリリカとの最初の出会いだった。

しばらく飲むと、不思議なくらいに症状は消えて、あまり気にならなくなる。

忘れた頃にまた症状が出るのだが、やっぱりリリカを飲むと収まってくれたのだ。

僕がフリーとなって縁もゆかりもない東京から遥か離れた福岡の地で単身赴任をするに当たっては、言語に尽くし難い様々な苦渋の日々があって、あの当時は確かに相当にストレスがかかっていたのかもしれないと妙に納得したものだ。

3年前に再び太ももが辛くなる

やがて福岡から東京に戻り、御茶ノ水にあるK病院で勤務することになった。

あのストレスではと言われた左足の太ももの辛さから約4年後、今から3年ほど前に、再び左足の太ももに痛みが現れた。

あの時は左足の太ももだけではなくて、左足の親指の付け根から膝、かなりの広範囲がジンジンと痛んできた。これは痛風の発作ではないかと思われた。

元々尿酸値は高く、過去に通風の発作にも襲われたことがあったので、用心をして当時も今もズッと高尿酸値血症の薬を飲んでいたので、痛風の発作が起きたとは思えなかったのだが、この時の痛みと辛さは福岡時代の比ではなくて、もう居ても立っても居られないほど辛く、痛みも酷かったので、自宅近くの町田市内の整形外科を受診した。

クリニックで今にして記憶を辿れば、MRIもなかったのだろう。普通にレントゲンを撮られたが、原因は不明だった。但し、痛風の発作でないことは間違いないと明確に否定された。

では何なのかということになるのだが、ハッキリしない。

当時のK病院の院長からは「偽痛風」ではないかと言われたが、正式に検査を受けて調べてもらったところ、ハッキリと脊柱管狭窄症ということが判明したのである。

MRIを撮ってもらえば、もう一目瞭然なのである。

腰椎の4番目か5番目が狭まっていて、典型的な脊柱管狭窄症だと。それほど重症ではないので、とりあえず薬を飲んで様子を見ようということになり、ここでまた「リリカ」を処方してもらうことになった。

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リリカを飲んで、すっかり痛みが治まった

そのリリカをどれくらいの期間飲み続けたかは正確に覚えていない。そんなに長い期間飲んだわけではなかったことは間違いない。

しばらく飲むと、多分1週間ぐらいだと思うが、もう不思議なくらいに痛みは引いて、完全に元どおり。痛みは綺麗さっぱり消えてしまった。

これには主治医にも驚かれて、こんなにリリカが効く人も珍しい。良かったですねと褒められて、何とも微妙な気分だった。

そんなことがあって以来、再び脊柱管狭窄症の痛みに襲われても、リリカさえ飲めばたちどころに痛みとはおさらばできると信じていたのである。

だから、今回、激しい痛みに襲われ、全く立つこともできなくなってしまった際も、手元にリリカが残っているから大丈夫だと固く信じていたいきさつがあった。

正にこんな感じで痛む。僕の場合は両足(脚)だったからたまらなかった。

立てない!全く歩けない!休みはもらったがどこで診てもらう?

朝、全く立ち上がることができず、もちろん歩けないので、仕事は休まざるを得なかったが、一日休んでも、その間どうすべきなのか?

それが差し当たっての当面の問題だった。

受診先として最初に考えるのは、もちろん前に脊柱管狭窄症との診断を下されていた前の職場である御茶ノ水のK病院である。

我が家は町田にある。全く立てない状態なのに、どうやって御茶ノ水まで行くというのかという根本的な問題があったが、前に撮影してもらっていたMRIとの比較がどうしても必要だと、素人なりに判断せざるを得なかった。

前回はこんなに痛くなることはなかったのだ。新たにもう一度MRIを撮ってもらって、脊柱管の狭窄が前回からどれだけ悪化しているのか、それをどうしても確認してもらわなければと思った。

K病院のホームページで整形外科の外来を調べると、あいにくこの日は脊椎の先生の外来はなかった。膝関節とスポーツを専門とする医師の外来日だった。整形外科という診療科は困ったことに専門領域が明確に区分されていて、脊椎疾患はどうしても脊椎の専門医に診てもらいたいし、診てもらう必要があるのである。

休みを取って一日家にいるのに受診できないというのは、いかにも残念だし、もったいなかった。女房はそれもあって、前のK病院で診てもらえないのなら、市内のクリニックで取り敢えず応急処置的に診てもらったらと盛んに勧めてくる。

「だいたいこんな立つこともできないような状況で、どうやって御茶ノ水まで行くの?」と、もっともなことを言ってくる。 

かつての部下だったK病院の医事課長に電話をして相談してみた。

すると翌日の脊椎の外来の予約を取ってくれたばかりか、必ず必要になるMRI検査も押さえてくれたのだ。これは本当に嬉しく、ありがたかった。

こうして翌日の受診のお膳立てはついた。後はどうやって御茶ノ水まで行くかだったが、僕はこの段階ではまだ甘くみていて、今日からズッとリリカを飲み続ければ、何とか明日にはかなり改善されるだろう、薬を飲んで、一日動かずにおとなしくしていれば、大丈夫。そう踏んでいたのだった。

ロマンスカーに乗れば御茶ノ水の隣りの大手町までは楽に行けるし、どうにでもなるだろう。

そうだ。明日はちゃんと御茶ノ水に行ってK病院で受診し、午後はその足でそのまま、今の病院に出勤しよう。

本気でそう考えていたのだった。

無理して都心の病院に向かうも、駅で動けなくなる!

その日は一日中ヒーヒー言っていたが、翌日には薬が効いてくれることも祈る一日だった。ところが、朝になっても痛みは一向に良くなっていなかった。

とにかく頑張って御茶ノ水まで行くしかない。

タクシーを呼んで、町田駅へ。駅まで行ければ、後はロマンスカーに乗って、そのまま御茶ノ水の隣り駅の大手町までは直通だ。そこまで行けば何とかなるだろう。

ところが、本当にこれが思いの他の難行となった。想定以上に臀部から足先までの痛みはキツく、本当に大変な思いをさせられた。

坐骨神経痛の痛みを解説したイラスト図
このイラスト図のとおりなのである。臀部から足先まで全体が激痛で襲われる。

幸い、亡き父が使っていた杖が残っていたので、杖をつきつつ歩くのだが、一歩踏み出すことさえ困難だったのだ。

それでも小田急線から地下鉄に乗り入れるロマンスカーは何とも便利で、無事に町田で乗り込んで大手町までは来れた。これはロマンスカーが運んでくれただけだ。

先ずは大手町でロマンスカーを降りるまでが一苦労。漸く降りた後、地下鉄千代田線で隣りの新御茶ノ水まで行く乗り換えが大変なアルバイトとなった。

とにかく杖をつきつつヨッチラヨッチラ歩くのだが、激痛に襲われながら慎重に一歩一歩進むしかないので、ホンの数歩進んでは休み、またホンの数歩進んでは休むの繰り返し。中々思うように先にと進むことができない。同じ駅の中の乗り換えができない始末。

それでも何とかようやく新御茶ノ水に着いたのだが、乗った場所が悪くて、ホームを降りてから、改札口までの移動がこれまた大変な苦労だった。

千代田線の新御茶ノ水をご存知の方なら良く分かるだろうが、あそこにはこの世のものとも思えないようなめちゃくちゃ長いエスカレーターが通っている。

そのエスカレーターの乗り口まで行ければ、後は巨大なエスカレーターにしがみついて身を委ねることで、改札口目前までは運んでくれるので、ジッと我慢して、何とか改札口直前までは辿り着くことができた。

巨大なエスカレーターを登り切ったところにトイレがある。長いことトイレにも行っていなかったので、どうしてもトイレに行く必要があったが、これもまた一苦労。何とか最後の力を振り絞ってトイレに入り、小用を足す。だが、そこで精魂尽きてしまった。

精魂尽きてしまっただけではなく、もうどうにも痛くて痛くてたまらず、これ以上一歩も先に進めなくなってしまう。そんな状況に陥ってしまった。

もう仕方がない。本日の受診の予約を取ってくれた例の医事課長にSOSの電話をするしかなかった。

新御茶ノ水に着いたと予め連絡を送っていたことを受けて、「もう駅まで車椅子で迎えに向かっていますよ」との声に、まるで救いの神のように思えたほどだ。ありがたかった。

こうして、駅の近くまで車椅子で迎えにきてもらって、僕は何とか無事にK病院に辿り着くことができたのだった。

K病院での検査結果と診断は

K病院では、実にスムーズに検査も診察も進めてもらったことに心から感謝したい。

MRIの結果はもちろん脊柱管狭窄症。しっかりと写真を見せていただき、ここがこんなに狭くなっていると説明を受ける。

やはり以前よりも狭窄が強まっているとのことだった。

問題はこれからの治療だったが、それはこの先、むK病院でお世話になることはないということは、最初からハッキリとしていた。

僕の今の職場は、K病院よりも遥かに大きな、全面移転新築からまだ3年ちょっとしか経っていないピカピカの高度急性期の大病院なのである。

治療はこの今の自分が勤務している大病院で受ける。これは自明の理であった。

ということで、K病院の脊椎の専門医には今の勤務先に紹介状を書いてもらうように依頼し、快諾を得た。

そして当面の薬を処方してもらった。もちろんリリカである。

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午後からの勤務を断念

問題はまだあった。

僕はこの日、K病院で診察を受けた後、そのまま現在の勤務先の病院に向かい、午後は勤務するつもりでいたのである。

僕は今の病院の要職に就いており、昨日からの僕の身体のことを心配してくれている病院長を始めとする幹部に報告をする必要もあったことはもちろん、昨日から突然休んでしまうことになって、仕事の方も心配だった。

だが、大手町から新御茶ノ水に来るまでの先ほどの苦労を思い出せば、また新御茶ノ水駅に戻って、更に1時間近く首都圏を移動することはほとんど不可能なことだった。そのことは自分自身が一番知っていた。

だが、一方でどうしても職場に行きたいと言う思いは強かった。そこでその旨をK病院の主治医に相談してみる。無理をしない方がいいと思うがどうしても行かなければならないのなら、座薬を指すのが一番効果があるだろうということで、座薬を処方してもらう。更にブロック注射をする手もあるが、直ぐに効果が消えてしまう可能性もあるからと言われた。

こうして座薬を直ぐに刺して、K病院の向かい側にある調剤薬局でリリカを受け取って、最後の決断を迫られる。時間は既に1時近かった。もちろん昼食は食べてしなかった。

今の病院の上司にも一連の報告をすると、無理をしなくていいので、今日はそのまま帰宅したらと勧められた。確かにこれから昼を食べて病院に向かうと2時を軽く回ってしまいそうだ。しかもどう考えても、座薬の効き目が出て来ても、これから先、町田の我が家の逆の方向に行くことは空恐ろしい気もしてきた。

こうして、結局、この日は職場の病院に行くことを断念し、そのまま町田の我が家に戻ることになった。2021年9月30日・木曜日のことであった。

折しも大型台風が首都圏に接近、翌日も休むことに

偶然とはいいながら、いかにもタイミングが悪かった。月が替わる翌日の10月1日の金曜日は、何をおいても絶対に出勤するつもりであったが、奇しくも翌朝は台風が首都圏を直撃すると言うその日であった。杖を使ってもまともに歩くことができない状態にあって、暴風雨に見舞われる台風直撃の日に出勤することはどう考えても危険この上なく、現実的に不可能というものだった。

というわけで、僕は誠に不本意ながら、この突然の脊柱管狭窄症による坐骨神経痛によって、何と想定外に三日連続で休むと言う最悪の結果となってしまった。

これが今回の僕の脊柱管狭窄症の闘病記録の発端である。あれから3カ月以上、つい数日前まで、この痛みと脚が全く思うように動かせず、ほとんど歩けない、階段は全く登れないという地獄のような日々が続くことになったのだ。あの9月末の時点では夢にもそんなことは想像もできなかったし、全く想定していなかった。

まだ始まったばかりだった。

(中編に続く)

 

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