目 次
いよいよバッハの中核である声楽曲に入る
バッハの創作の中心は、実は声楽曲、つまり器楽に加えて人の声が加わる形態、具体的には合唱や独唱などの歌が加わる作品群にあることはもちろんである。ここには超弩級の名作、傑作がこれまた目白押しだ。
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マタイ受難曲~人類が遺した最高の音楽
先ずは、超大作の「マタイ受難曲」から。これは一曲だけで3時間半から4時間近い演奏時間を要するバッハの最大にして最高の名曲。
古今東西の声楽曲の中でもこれ以上の規模も、長さを誇るものも皆無。少し大袈裟に言ってしまうと、およそ人類が創作した音楽による最大のドラマと言って構わないだろう。
僕が尊敬してやまないあの著名な音楽評論家の吉田秀和曰く、「人類が作曲した音楽作品をただの一曲だけしか残せないとしたら、このマタイ受難曲を選ぶことになる」と断言している程だ。
もちろんオペラにまで裾野を広げて見渡せば、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」という全4部作の通算演奏時間が15時間以上にも及ぶ桁外れの楽劇(オペラ)もあるのだが、マタイ受難曲の場合には、とにかく内容が内容なのである。
これは文字どおりあのイエス・キリストが捕らえられ、虐待を受けて、十字架上で磔の刑を受け、虐殺されていく姿を真っ正面から描き尽くした、文字どおりイエスが殺されていく様を描いたドラマなのだ。
西欧のキリスト教徒にとって、これはもう全く自らの信仰の核心に迫るどうしようもないドラマであって、信仰と生き様そのものを問われることになる大変な作品なのだ。
僕はもちろんキリスト教徒(者)ではないが、仮にキリスト者だとしたら、とてもいたたまれない、自らの最も抜き差し難い生きるか死ぬか、これがあればこそのキリスト教であり、これに向き合う3時間半は壮絶な体験になるであろうことは、容易に想像ができる。
簡単に言えば、あのイエス・キリストが主人公となって、自ら歌を歌い、イエスの生の悲痛の声を聞くことができる特別な音楽なのだ。
しかも罪を問われ、それを否定し、それ故に拷問を受けて、虐待を受けながら虐殺されていくそのあまりにも凄惨な生々しさは尋常のレベルを遥かに超えていて、空恐ろしいばかり。イエスだけではない。周りにいた弟子たちの生き様も問われ、これは本当に辛く、どこまでも深く、壮絶なドラマとなっているのである。
全くバッハはよくぞこんな途方もない音楽を作曲したものだと感嘆してしまう。
とにかく黙ってこの音楽を聴くしかない。そして「殺されていくイエスを目撃し、自らの心に問え」としか言いようがない音楽。イエスの悲痛の断末魔の叫び声に耳を傾けて、自らの生き様を問うしかない。
少し具体的に説明しよう。
ドラマとしては、「エヴァンゲリスト」と呼ばれるテノールの「福音史家」が聖書の文言に沿って、この場合は新約聖書のマタイ伝によるイエスの受難を一つ一つ説明していくのだが、その中にはイエスやピラトなど当時のイエスを取り巻いた実際の登場人物が出てきて、声を発し、嘆きながらドラマが進んでいく。それを周りで見聞きしている他の弟子を含めた見物人たちがいて、それらが合唱として登場してくる。
その一方で、この受難劇を見ている現在の我々がいて、受難の進行に応じて、その都度、イエスを救えずに見殺しにしてしまった我々の罪と嘆きが同時に歌われていく、というかなり錯綜した重層的かつ立体的なドラマ・音楽となっている。正にバッハだけが成し得たとてつもないドラマと悲痛を極めた音楽がここにはある。
いやはやとんでもない作品。だが、バッハを聴こうとした場合、これだけはどうしても避けて通れない。どうしても聴いてもらう必要がある。
若きメンデルスゾーンの偉業
今ではバッハの最高傑作であることはもちろん、ヨーロッパ音楽の中の最高峰との評価が固まっているこのマタイ受難曲も、実はバッハの死後、完全に忘れ去られ、忘却の彼方に葬られていた。
バッハは生前のうちから、あまりにも流行遅れの古い作曲家として、特に晩年は周囲からあまり相手にされていなかった。だからこそ、当時は大バッハというのは2人の息子たちだったのである。
そんな調子だったので、バッハの死後はバッハの作品は基本的にほとんど埋もれてしまったのだ。
それを蘇らせたのがあのメンデルスゾーンということは、音楽史の最も劇的なエピソードとしてあまりにも有名だ。メンデルスゾーンはモーツァルトに勝るとも劣らない天才として有名だったが、今日そこまでの高い評価を得ているかというと、少し残念だ。だが、実はメンデスゾーンの最大の功績は、バッハのマタイ受難曲の再演を実現し、それによってバッハをあの時代に蘇らせたことだと言っても決して過言ではない。指揮者としても活躍していたメンデスゾーン20歳の時の仕事と聞いて、リスペクトしないわけにはいかない。
きっかけはメンデルスゾーンの14歳のクリスマスプレゼントして、祖母からもらったマタイ受難曲の自筆校の写しだったという。それを少年メンデルスゾーンが研究を進め、6年後の1823年に復活させた。メンデルスゾーン、時に20歳。今から約200年前の話しである。こうしてマタイ受難曲だけでなく、バッハも蘇ったのである。
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ヨハネ受難曲
バッハにはもう一曲、素晴らしい受難曲がある。それが「ヨハネ受難曲」だ。マタイ受難曲に比べると少し短めで、演奏時間は2時間半程度。CDではマタイ受難曲は3枚組だが、ヨハネ受難曲は2枚に収まる長さ。実は、このヨハネ受難曲がマタイ受難曲に勝るとも劣らない大変な名作なのだ。少し短い分、イエスの受難がコンパクトにまとめられ、少し余計な部分を削ぎ落して、イエスの受難にストレートに肉薄する素晴らしい傑作。特に特徴的なことは、合唱団の活躍が目覚ましく、合唱好きにはたまらない作品となる。マタイ受難曲の傑出した素晴らしさは認めつつも、ヨハネ受難曲の方が好きだという人が、結構多い。かくいう僕もその一人である。
本当にこの曲の合唱の劇的なことと、余計なものを全て削ぎ落して、イエスの受難という事実そのものに肉薄する描写力と力強さは半端ない。マタイ受難曲があまりにも重過ぎて長過ぎるとお感じになられる方は、先ずはこのヨハネ受難曲から聴いてもらうといい。本当にお勧めである。実に感動的な素晴らしい曲だ。
ロ短調ミサ曲~最も好きな曲がこれだ
さあ、いよいよ「ロ短調ミサ曲」の登場だ。僕はバッハのありとあらゆる作品の中で、このロ短調ミサ曲を一番熱愛し、バッハの中で一番好きな曲というに留まらず、古今東西のありとあらゆるクラシック音楽の中でも最も好きな特別な曲なのである。この「ロ短調ミサ曲」とモンテヴェルディの「聖母マリアの夕べの祈り」が人類が作りえた最高の合唱曲の双璧であり、僕が最も愛している2大名曲ということになる。
バッハでは既に書いたように「平均律クラヴィーア曲集」という大変な曲があり、無伴奏チェロ組曲もある中で、本当に選択に苦労するのだが、やはり僕の本領は合唱にあり、合唱指揮者としてはどうしても、このロ短調ミサ曲をバッハの最高の名曲として取り上げないわけにはいかない。
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僕のロ短調ミサ曲との出会い
この曲を初めて耳にした時の衝撃と感動を今でも忘れることができない。まだ耳に残っている。
僕とバッハとの出会いはかなり遅く、大学2回生の時の同じ合唱団の同級生の下宿先だったことは既に書いたとおりだが、そこで忽ちバッハと恋に落ちた僕は、夏の帰省時に高校時代の音楽の先生の家を訪ね、バッハへの熱い思いを伝え、先生が所有していたバッハのレコードをとにかく何でもいいから聴かせて欲しいと頼み込んだのだ。
やがてクラシックのCDの異常なコレクターとなる僕も、貧乏学生時代にはプレイヤーもないし、レコードは聴くことができなかった。そんなこともあり、かつての恩師を訪ねたのである。
そこで真っ先に聴かせてもらったのが、何とロ短調ミサ曲だったというわけだ。これが今思い出しても、信じられないくらいの恵まれた話しだった。膨大なバッハの作品群の中から、僕が今でも最も愛し抜いているバッハの最高傑作をいきなり聴くことができたなんて、本当に偶然というにはあまりにも驚くべき話しだ。
冷静に考えてみると、その音楽教師は僕が高校の合唱団で指揮者を務めていた時の顧問だったので、やはり折角竹重に聴かすなら、合唱の最高峰がふさわしいという判断があったんだろうと、今となっては思わないわけにはいかない。先生には本当に感謝したい。
このロ短調ミサ曲は、全体で演奏時間が2時間から2時間半近くかかる異常な長さを誇る特別なミサ曲なのである。普通ミサ曲というのは1曲30分程度。長くても1時間というのが相場だ。有名なモーツァルトの「ハ短調ミサ曲」やブルックナーの大曲も1時間もかからない。それがバッハは2時間を超える長大なミサ曲を残したのだ。不思議な話しではある。
だから、そんな長い曲を先生のご自宅で最後まで聴いたわけでは、もちろんない。
とにかく冒頭のキリエ。
これで完全にノックアウト。わずか2小節。時間にして5秒足らず。
「神よ」と全身全霊をかけての祈りの声。その絶叫が心と身体に突き刺さってくる。その響きの切実さと一途さ、祈りの深さに身動きが取れなくなった。
このわずか2小節5秒の音楽体験が、僕にとって人生を決定してしまうくらいの衝撃となったのだ。
確かにこの冒頭のキリエは、本当にそれはそれは感動的な音楽なのだが、あの時に僕は凍りついた。金縛りにあった。あんな感動はその後もそう何度も経験できるわけではない。
忘れもしない当時は圧倒的な名演として世界中の音楽ファン、バッハファンを虜にしていたあのカール・リヒター指揮のミュンヘン・バッハ管弦楽団と合唱団の演奏。
リヒターがバッハ演奏史に残した業績はあまりにも偉大なものがあって、当時は本当に神様扱いされたものだ。まだ古楽器なんてものが登場する前の話し。
今ではすっかりと様変わりしてしまって、特に合唱団のレベルの向上が凄まじく、いくらリヒターと言えども、あのミュンヘン・バッハ合唱団は、最近の合唱団のレベルには到底太刀打ちできない。
だが、それでもやはり、いくら美しくて、透明な素晴らしい響きとハーモニーを揃えた合唱であっても、聴いた時の感動はこのリヒター盤に勝るものは一つもない。特に冒頭のキリエはそうだ。
僕は、単に技術的に優れていること、美しいハーモニーと響きだけでは、聴く者を心底感動させることはできない、逆に言うと、必ずしもベストの音楽的な技術がなくても、人を深く感動させることができるということを、このリヒターの合唱から学んだ。
今、僕の手元にある40種類を超える全てのロ短調ミサ曲の録音を聴いても、冒頭のキリエは50年以上前のリヒターとミュンヘン・バッハ合唱団を超えるものは一つもないと断言する。
そういう超弩級の大変な演奏と劇的に巡り合い、僕のバッハ愛はこれで確定的になった。
幸せな経験だった。
全編に渡って感動的かつ驚異的な合唱の妙技が延々と続く2時間
本当にロ短調ミサ曲の合唱の素晴らしさは表現できない。しつこいけれど、人類が作った最高の合唱曲がこれだ。
バッハは対位法という音楽を最も得意としていた。具体的にはフーガである。それはハモるという音楽ではなくて、それぞれのパートが全てメロディを歌うというポリフォニー音楽の究極の姿。
バッハはとにかくフーガを量産した。例の平均律クラヴィーア曲集も半分の48曲はフーガ。オルガン曲でも山のように出てくる。バッハのフーガは数学的とも呼ぶべき極めて理論的に精緻の限りを尽くして作曲されているだけに、演奏は至難の技だ。
その至難のフーガをバッハはこのロ短調ミサ曲の中で、遠慮なく(笑)片っ端から展開しているのである。鍵盤楽器など器楽ならまだ演奏は可能なのだが、その長大にして難解なフーガを人間の声、しかも複数の人間による合唱でやろうとすると、歌う側はもう本当に大変なのだ。
バッハは情け容赦がない。遠慮も何もない(笑)。こんな難解なフーガを合唱で歌わせるのか。しかも繊細極まりないピアニシモ(pp)で。そんな嘆きが聞こえてきそうな超絶技巧曲のオンパレード。とにかく合唱の聴かせどころが満載で、本当にこれは天才の作った霊感に満ち溢れた奇跡的な作品だ。いつ聴いても、何度聴いてもその都度、心が震えてしまう。
僕は幸運なことに、このロ短調ミサ曲をステージ上で2回歌っている。それは至福な体験だった。本当に難しい大変な曲なのだが、何度か歌っているうちに、その難解さはいつの間にか快感に変わってくる。
元々技術的に難しく、音もリズムも取りにくいのだが、練習を重ねて歌えてくるようになると、バッハの音楽の持つ本来の美しさと格調の高さに酔いしれてくる。歌っていて本当に快感なのだ。
人類が作った最高の合唱曲の魅力をトコトン味わってほしい。合唱の素晴らしさが最大の魅力のロ短調ミサ曲であるが、フルオーケストラがこれまた最高に持ち味を発揮して、その輝かしさと力強さ、そして哀切極まりない響きで聴く者を魅了する。バッハの霊感に満ち満ちた魂と肉体に直接響き渡る至高の音楽に、これ以上ない感動を受けること必至。
とにかくバッハの持てる全ての音楽的力量を発揮し尽くした音楽に、騙されたと思って身を委ねてほしい。
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クリスマス・オラトリオ
これも演奏時間約3時間を要するバッハの大作。マタイ受難曲やヨハネ受難曲の対極にある音楽。
クリスマス、これはイエスが生まれたことを祝う曲。あの2つの偉大な受難曲を作ったのと同じ人が作曲したとは思えない程の、明るく幸福感に満ち溢れた曲。この両方を聴くことによって、バッハの大きさが分かるというもの。
但し、このクリスマス・オラトリオは3時間も要する大作とは言うものの、実態としては6曲のカンタータの集合体で、一つの作品としてのまとまった感動とは程遠い。
イエスが生まれたことを祝う6つの曲集の集合体として、気楽に楽しんでほしい。
モテット
合唱を愛する人にとってロ短調ミサ曲にも匹敵するほどの合唱の醍醐味を味わうことができるのは、モテット集である。これはオーケストラを伴わない正に合唱だけで演奏することができるだけに、世の合唱愛好家、合唱指揮者にとってはかけがえのない曲だ。8曲あるが、特に3番の「イエスよ、わが喜び」は25分程の合唱曲でとりわけ愛されている名曲。僕も指揮をしたくて仕方がない曲だ。
マニフィカト他
聖母マリアを讃えるマニフィカトも抜かすわけにいかない名曲だ。これは40分弱のこじんまりとした曲だが、バッハの声楽曲の粋が凝縮された曲で、バッハの素晴らしさを満喫できる。バッハの声楽曲の入門曲として最適だろう。クリスマス・オラトリオ同様に聴いていて、本当に幸福感に包まれる小さいながらも宝石のような珠玉の名作。
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教会カンタータ
そして声楽曲の最後はカンタータである。バッハのカンタータは教会カンタータと世俗カンターとの2種類に分かれる。
先ずは教会カンタータである。これは相当にバッハに親しんできた人にとっても、最後の大きな壁、ハードルだ。こんな素晴らしい曲集を捉えて、壁だ、ハードルだと言うのもいかがなものかと思うが、ここがバッハの大分水嶺。
というのは、この教会カンタータ集は、実はこの大バッハの創作の一番の中心、圧倒的な量の作品が作曲されているからである。
その数、何と200曲!!厳密には199曲だが、この200曲という膨大な数の作品は当然のことながら大バッハの全作品の何と3分の1を占めているのである。教会カンタータは宗教的なテーマで、オーケストラと一緒にありとあらゆる声楽を駆使して、神を讃える音楽である。実に様々な形式があるのだが、時間的には15分程度の短いものも中にはあるが、1曲あたり20分から30分程度の作品集である。つまりバッハにはオーケストラとあらゆる形式の声楽を駆使した20分から30分の宗教曲が200曲もあるということだ。中には40分を超える大作もあるので、その分量たるや膨大なもの。全ての教会カンタータを録音した全集が、現在は世界に6種類存在しているが、CDの枚数はおよそ50枚から65枚程度。教会カンタータだけでCD60枚!?
バッハの全作品のCD全集は155枚から170枚程度なので、正にバッハが作曲した全作品の何と3分の1が教会カンタータと言うことになる。この200曲を全て聴きこむことは実際容易なことではない。僕のように45年間にも渡ってバッハの音楽を聴き込んできたバッハ愛好家でも中々全てを聴くことは難しい。200曲のうち15曲程は非常に有名な人気曲で、そのあたりは良く聴いているのだが、それ以外の全てを聴くことはかなり困難だというのが偽らざるところ。
このコロナ禍の中、遂に全曲を聴く
僕は世界に存在する6種類の全集のうち、あまり評価の高くない一種類の演奏を除き、5種類の全集を揃えているのだが、どうしても全てを聴くことはできなかった。これは熱烈なバッハファンとしてはあるまじき行為。
このことをずっと負い目に感じていた僕は、このコロナ禍の中、遂に全ての曲を聴くことができて、言葉にできない充実感と満足感を味わっている。
例のロ短調ミサ曲の空前の名演を遺した最高のバッハ指揮者であるあのカール・リヒターが、バッハの魅力は結局はカンタータに尽きるという非常に有名な言葉を残している。そのリヒターでさえ、教会カンタータの録音は74曲と、全体の3分の1強に留まった。
それはともかくとして、このバッハの偉大な作品群の全てをじっくりと聴くことができて、やっぱりリヒターの言っていたことは本当だ、バッハの魅力は最後はカンタータに尽きると、僕も身をもって実感することとなった。
この200曲、ただの1曲として似たようなものはなく、200曲が200とおりの魅力で宝石のように独自の輝きを誇っている。その全てを聴くことは、本当に宝石箱を一つ一つ開けていくようなワクワク感と胸の高鳴りを抑えることができなかった。
このカンタータに関しては、引き続きバッハの第4弾として詳しく紹介させていただく。
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世俗カンタータ
最後は世俗カンタータ。バッハ紹介の第1弾にも書いたが、オペラを一曲も作曲しなかったバッハのいわばミニオペラ集だと思ってもらえばいい。キリスト教とは全く関係のない世俗的なテーマの曲。全体で18曲ほど残されているが、特に有名な作品は、「コーヒー・カンタータ」や「農民カンタータ」「結婚カンタータ」など。ユーモアに満ち溢れた楽しい曲も多く、バッハの思わぬ側面を味わうことができるこれまた逸品揃いである。全曲でCD8枚程度である。