「TAR/ター」の評価は非常に高いが・・・

前回取り上げた「TAR/ター」

そこで詳しく紹介したとおり、この作品は昨年(2023年)公開映画のキネマ旬報ベストテンで見事ベストワンに輝き、読者選出ベストテンでも第2位。監督脚本のトッド・フィールドが外国映画監督賞まで受賞するなど、日本では極めて高く評価された。

本国アメリカにおいても、2023年のアメリカのアカデミー賞において、結果的には「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」に全敗してしまったものの、作品・監督・脚本・主演女優・撮影・編集と主要6部門にノミネートされ、非常に話題となり、注目された映画だった。

映画のチラシの裏面。

ネタバレ満載でターのパワハラを検証

ところが、この映画は僕が没頭しているクラシック音楽界の内幕を描いた作品であるにも拘わらず、僕はこの評価が納得できないでいる。

いや、むしろ僕がクラシック音楽のことや楽壇のことをある程度知っているからこそ納得できない部分が多かったのかもしれない。

前回の紹介でもかなり辛口批評となってしまったが、あれだけでは書き足らず、今回はネタバレ満載映画のもっと具体的な検討、特にターの言動が本当にパワハラに該当するものなのかどうかを徹底的に分析してみたい。

したがって、今回のこの記事は、まだ映画をご覧になっていない方は、絶対に読まないようにしてほしい。映画を実際に観た後で読んでいただくよう、最初にお願いしておく。くれぐれも注意してほしい。

スポンサーリンク

ターの言動はパワハラに該当するのか?

映画は女性として初めてベルリン・フィルの首席指揮者となって栄光の頂点にいるターが、かつて指導していた若手指揮者(クリスタ)が自殺をしたことを皮切りに、ターのベルリン・フィルでの様々な振る舞いがパワハラとされて追い込まれ、最後にはベルリン・フィルを追放されるばかりか、クラシック音楽界に身を置くことさえ許されない状況となって、欧米を離れ、東南アジアに身を隠し、そこでゲーム音楽の指揮者に身を落とす?姿が描き出される。

追い込まれた挙句の暴挙で追放

ターが最終的に楽壇に身を置いていられなくなるのは、ター自身の数々の言動がパワハラと解釈され、演奏の機会を奪われ、自暴自棄に陥ったターがコンサートホールでの演奏会当日に信じられないような暴挙に出て、前代未聞の修羅場を演じてしまったからだ。

それもこれもターの言動が行き過ぎだった、やり過ぎだった、つまりパワハラだったとされたからだ。

そこで僕は、この映画の中のターの言動が非難を受けるべきパワハラに該当するものだったのかどうかを検証してみたい

映画の1シーン。実にさまになっている素晴らしい指揮姿。ケイト・ブランシェットは指揮も猛特訓したらしい。だったらもっと演奏シーンを描いてもらいたかった。

指揮者として当然、音楽界では当たり前

先に結論を言ってしまうようで恐縮だが、この映画の中で描かれたターの一連の問題行動は、事実関係がハッキリとしない一部を除く明確に描かれた事案については、それほど問題とされる要素は少なく、指揮者として当然の、音楽界では至極当たり前のことばかりのように思われる。

指揮者という存在は絶対的な権力を持っている。でなければ個性揃いの100人を超えるオーケストラメンバーを率いて音楽を完成させることなどできない。

その分、時にわがままや強い権限を行使することがあってもやむを得ない。これは何も音楽に限ったことではない。映画製作の現場でも同様だろうし、スポーツチームの監督やコーチなどの指導者だって全く同じことだ。

もちろん政治の場においても。

そう考えれば、あの映画で描かれたターの言動を見る限り、あれらを理由として追い込まれるとしたら、あまりにもターは気の毒で、同情してしてしまう。

カリスマ指揮者に多少の横暴は付きもの、しかもあの程度の言動を横暴と呼ぶことはできないとするのが、僕の率直な感想だ。

ターの精神的脆弱さを描くのが狙いかも

何よりも強く感じることは、今回の一連の言動ではターは精神的に追い込まれる必要はなく、もっと毅然とした態度を貫くべきだった。

にも拘らず、不眠に陥り、心身共に追い込まれていくのは、ター自身の弱さ毅然とした態度を取ることができなかったターのメンタルの弱さが原因であり、そこにターの限界を感じてしまう。

あれだけのカリスマ指揮者が、一皮抜けばあんなに脆弱な精神の持ち主だった適切なリーダーシップを発揮することなどできない資質の持ち主だった、それを描くのがこの映画の狙いだったのかもしれない。そんな気もしてくるのだが。

スポンサーリンク

パワハラ認定に十把一絡げは容認できない

この映画で非常に抵抗がある点は、ターの立場が悪くなってくると、ターの言動のやることなすこと全てが非難の対象になってしまうこと。ターという人物はこんな横暴な指揮者で、こんな嫌な人間だというター否定論が一斉に吹き上がってくる点にある。

こんなことも、あんなこともあった、とターの言動のあら捜しがエスカレートし、どんどんいわれなき苦境に陥り、精神的に追い込まれていってしまう。

事案の個別検証が必要

それは容認できない。パワハラ認定に十把一絡げは許されない。ターが取った一つひとつの言動を、事案毎に個別に検証することが必要だ。そうしないとターに不利となってしまう。

ということで、映画に描かれたターの言動を一つずつ検証してみる。

先ずは、その前提として映画の描写法というか事実の描かれ方そのものの検証しておきたい。

スポンサーリンク

 

徹底してターの目線と心理状状態で描かれる

この作品は、徹底して主人公ターの目線と心理状態で描かれている。ターの一人称で展開される映画である。

したがって、「ターが何を考えて、どんな行動を取ったのか」、それは比較的ハッキリしている。ある行動の根底に何があったのか、ターは何を心配し、何が原因でそんな行動を取ったのか、その点はかなり具体的に分かりやすく描かれている。

その一方で、ターの言動によって相手がどう感じたのか、それはかなり無視されている。そこで突然、ターは告発を受けたり、信頼していた助手に逃げられてしまう。

相手の受け取り方、受け止め方については、ベテラン副指揮者のセバスチャン以外はあまり言葉は発せられず、顔の表情だけで表現されることがほとんどだ。

表情から、相手はターを怖れ、恨んでいることが明らかになるのだが、権力者のターにはその心情が理解できない。

この相互の不信感、分かり合えないこと」が、映画のもう一つのテーマなのかもしれない。コミュニケーション不足と言ってしまえば、それだけのことなのだが。

パワハラは受けた側がどう感じるか

実は、この点が問題なのだ。パワハラは、実際の認定に当たってはどのような言動がなされたという事実よりも、その言動によってパワハラを受けたとされる側がどのように感じたか、つまりその言動によって言われた側、受けた側がパワハラと感じたかどうかが最も重要な点とされる。

そういう意味では少し困った制度で、被害妄想でもパワハラが成立してしまう余地がある。少し過保護のきらいはないか、そう感じなくもない。

それを理解した上で、僕は敢えてターの一連の言動がパワハラと呼べるものなのかどうかを具体的に検証する。

スポンサーリンク

その1:副指揮者を解任したこと

ベテランの副指揮者セバスチャンの解任について。

これは指揮者として当然保有している権限である。そのオーケストラの常任指揮者の地位にいれば、自分とオーケストラの役に立たない副指揮者は当然更迭しうる。

その更迭の是非、正しい判断だったのか誤った判断だったのかの評価は、更迭した側の指揮者そのものの評価と歴史が判断することになる。それを含めての指揮者の決断だ。

そんなことはどんな業界でも頻繁に、日常的に行われていることだ。プロ野球の監督がコーチを選任し、時に交替させることと全く一緒。

映画の中では、曲の解釈、楽譜に書かれた作曲者(マーラー)の指示を巡って、ターと見解が相違したことが直接の原因だった。それだけで副指揮者を辞めさせる理由になりえるかどうか、それも含めて指揮者の判断だ。

極端な言い方をすれば、その理由に合理的な理由や誰もが納得できる理由など不要である。言ってみれば指揮者の人事権の裁量権の範疇に属する問題である。

僕はオーケストラではないが、合唱団の運営については詳しく、自分が設立した合唱団の指揮者として活動してきただけではなく、40年間以上に渡って全国の様々なトップレベルの合唱団に身を置いてきたが、ここでも同様なことは頻繁にあった。

全ては指揮者の絶対的な権限で行われることだ。その人事判断に誤りがあればいずれ判断した指揮者自身が自ら責任を負う。そういうシステムである。

どんな業界であってもそれが普通ではないだろうか。

実際には、本人に丁寧な対応をした

ターはベテランの副指揮者セバスチャンに決して横暴な態度で接していない。実に丁寧なリスペクトを伴った対応をしている。納得できなかったセバスチャンはかなり興奮して非難したり、哀願したりしているが、それは止むを得ない。

あれだけの紳士的な対応をしたターを僕は立派だったと考えている。

プロ野球などのスポーツ界にあっての「戦力外通告」はもっと冷徹で、残酷ではないのか。あれでターが非難されるのは有り得ない。非難されるいわれはない。

スポンサーリンク

その2:後任副指揮に身近の弟子を選ばなかったこと

その退団したベテラン副指揮者セバスチャンの後任選び。

これこそ指揮者の専権事項である。手続き的にはベルリン・フィル程の組織になれば団員による投票などが行われるのであろうが、副指揮者を選定するのは指揮者だ。

ターに仕えてきたフランチェスカが自分が後任に選ばれるだろうと勝手に期待して、当然そうあるべきだと思ったとするならば、尊大としか言いようがない。「何を勘違いしているんだ!思い上がるのもいい加減にしろ!」と強く抗議したい。

ターはフランチェスカに「経験の多い人の方が今回はいい」とちゃんと気遣って声をかけている。

それが納得できず、頭に来たとして、ターの元を断りも許可も得ずに勝手に辞めて、逃げ出してしまうのはあまりにも酷い。子供の振る舞いである。

しかもこれを契機に、フランチェスカは反旗を翻して、ターを非難する側に回ったことはあまりと言えばあまりの行動である。結局、自分の利害だけでターを利用していたのであろうか。

合唱団でも簡単に副指揮者にはなれない

合唱団でも、実力のある一流の合唱団で副指揮者の地位を得ることは並大抵のことではない。

僕自身、数人の師匠の元で団員、つまり一歌い手として実績を重ねながら、折あらば副指揮者になって合唱団の指導をしたいと何度かチャンスを伺ったことがあったが、そうすんなりとはいかなかった。

それでも某S先生の元で複数の副指揮者の中の一人に選んでもらったときは、感激したものだ。

師から副指揮者に選ばれなかったからと言って、その指揮者の元を一方的に離れ、敵対勢力として攻撃側に回るなど、有り得ないこと

フランチェスカの行動には深く失望させられた。

の副指揮者選任に何の問題もなく、パワハラどころの話しじゃない

スポンサーリンク

 

その3:ソロ奏者にお気に入りの新人を選んだこと

チェロのソリストの選任についても、僕はあまり問題なかったと思う。

先ず、マーラーの交響曲第5番と一緒に演奏されるもう1曲を何にするのかを決定する選曲権は、100%指揮者の権限であることはもちろんだ。

そこで選んだ曲がエルガーのチェロ協奏曲というのも、正直言ってクラシック音楽に詳しい方なら、ちょっとどうなんだって思うのは当然のことだ。エルガーはマーラーの前では少し弱い。

だが、選曲権が指揮者の専権である以上、全く問題ない。そういう曲を選ぶことがいずれ指揮者への評価となっていくのである。今は任せるしかない。

敢えて言えば、気に入った若いチェリストが弾いている映像を観て決めたというのはいかにも薄っぺらく、ターの音楽性と楽壇のトップ指揮者としていかがなものかとは思うが、物事を決定する経緯には色々なことがあって、それらを総合的に集約して最終的に指揮者が判断するのだから、そのプロセスには問題がなかったと言っていい。

問題は、ソリストに誰を選ぶかだ。これだって指揮者の専権事項。指揮者が一緒に演奏したいというアーチストを選び、オファーを出せばいい。

今回は、オーディションで団員の中から選ぶことになった。

スポンサーリンク

オーディションで全員一致で選ばれた

ここで忘れてほしくないのは、あのロシア人の新人チェリストはオーディションによる全員一致で選ばれたということだ。

映画の展開では、あの性格の良くない若いロシア人チェリストは勝手にターが選んで、それもターが彼女に音楽的才能以外の要素で心を奪われていたから、つまり指揮者によるえこ贔屓の産物という展開をしていく

そうではない。新人チェリストの演奏が素晴らしく、オーディションで全員一致で選ばれている

その際、まだ正式な団員ではないということが話題になったが、そもそもベルリン・フィルほどの世界一とも称されるオーケストラのコンチェルト(協奏曲)のソリストを団員から選ぶという判断の方がどうかしており、力のある奏者が選ばれる、それが最優先だ。

その突出した才能を見抜いて、ターが大抜擢したわけだが、あくまでもオーディションによる全員一致。団員の首席チェリストが選ばれなくても何も問題ない。団員の主席奏者が選ばれなければならないという発想の方がよっぽどおかしいし、音楽性を無視したパワハラではないか。

合唱団の演奏ではしばしば一人で歌うソリストというのが出て来る。これに選ばれるのは歌手として最高の名誉だが、これはもちろん指揮者が独断で決定することが常だ。

音楽、芸術では能力、才能が全て。いや、スポーツの世界でもそれが当然だ。

指揮者は音楽的なことについては、全責任を負う圧倒的な権限と裁量権を持っている。ターはむしろ相当に民主的な方法でソリストを選んでいると感心させられた。

あれでターが批判されるのはおかしい。ターは新人チェリストに心を奪われているのは事実であるが、それとソリスト選任とは全く別の話しである。

スポンサーリンク

新人チェリストはかなり嫌な人間だが

あのロシア人の新人チェリストはかなり嫌な人間である。ターが講師を務めているセミナーでも、男とぺちゃくちゃやっていて、多分ターの元を去ったフランチェスカとLINEで悪口を言い合っている。

どうしようもない人間のように思えるが、チェロの演奏は素晴らしい。

だからソリストに選ばれたというだけだ。音楽の演奏者に人間性を求めても仕方がない。いや、その人間性を含めての選抜だと思うしかない。その責任は専ら指揮者が負うのである。

映画の1シーンから。ピアノに向かうのが新人のチェリスト。左手奥にいて彼女を見つめているターの姿。

カラヤンのマイヤー事件を彷彿させる

このエピソードは少しクラシック音楽に詳しい方なら、最晩年のカラヤンがお気に入りのクラリネット奏者のザビーネ・マイヤーを入団させようとしてベルリン・フィルと確執を生んだ事件を彷彿させられることだろう。

1982年、今から40年以上も前のことだが、カラヤンが23歳の若手女流クラリネット奏者のザビーネ・マイヤーを強硬に入団させようとしたが、ベルリン・フィルの団員投票では入団反対が決議され、大問題となった。

最終的にはマイヤーが自ら身を引いて決着をみたが、これを契機にカラヤンとベルリン・フィルとの関係は急速に悪化していったことは良く知られている。

当時はベルリン・フィルには女性団員は一人もいなかったという信じられない時代の話し。

女性であっても力を持っているなら入団させるべきだというカラヤンの主張の方が理にかなっていると思うが、これ以降、団員の入団の採用権はオーケストラ側にあると決められた。今回の映画もそれが前提となっているわけだ。

僕はカラヤンはあまり好きではないのだが、この件に関していうと、決しておかしなことを言っていたとは思えない。しかも、実際にザビーネ・マイナーは素晴らしいクラリネット奏者だった。

 

【後編】に続く

 

☟ 興味を持たれた方は、どうかこちらからご購入ください。

1,650円(税込)。送料無料。 ブルーレイ。まだ新しい作品なのにブルーレイが廉価盤になっていることは大歓迎。とにかく安いので、映画のことはかなり批判しましたが、これは買いです。


TAR/ター【Blu-ray】 [ トッド・フィールド ]

おすすめの記事