(前編から続く)
目 次
交響曲第8(9)番「ザ・グレート」の概要
全体は4楽章から構成され、全ての楽章が15分前後の演奏時間を誇るため、全曲を通じると50分から丸々1時間ほどかかる。この時代の交響曲にあっては異例の大曲。
この長大さが後のブルックナーやマーラーの大交響曲に繋がっていったことは間違いないだろう。
【第1楽章】 Andante- Allegro ma non troppo
ハ長調、2分の2拍子、序奏付きソナタ形式 約13~15分
曲の冒頭はホルンによってゆったりとしたメロディが奏でられる。そのメロディが様々な楽器に受け継がれていきながら、一方で転調も繰り返していく。
これは非常に美しい。管楽器と弦楽器の対話というか掛け合いも実に繊細さを極めており、溜息が出る程美しい。
そんなゆったりとしたテンポで始まったものが、いつの間にか非常にエネルギッシュかつ男性的な雄渾な音楽に変容していく。この変容が驚嘆すべきもの。
その後は、ひたすら陽気な歌に溢れたリズムの饗宴となる。気宇壮大な音楽に圧倒されるのがこの楽章だ。
【第2楽章】 Andante con moto
イ短調、2分の4拍子、展開部を欠くソナタ形式の緩徐楽章 約14~17分
この第2楽章は4つの楽章の中でも一番長い楽章である。全体的に男性的で歓喜のリズムが躍動するこのザ・グレートの中にあって、この第2楽章も細かいリズムと激しいダイナミズムに彩られるが、非常に静謐な部分も多く、ドッキリするほどの微妙なニュアンスと美しさに満ち溢れている。
冒頭のオーボエが奏でる印象的な息の長い軽やかなメロディが、この楽章を象徴するかのようだ。管楽器も多用される。
後にブルックナーが多用するゲネラルパウゼ(総休止。全ての楽器が演奏を休止すること)のはしりのようなものまで出て来る。静謐の極みとして音楽が消えてしまうのだ。
ブルックナーはシューベルトから学んだのだろうか。多くの人が思うよりもシューベルトはかなり斬新なことを大胆にやってのけた。
シューマンが「全楽器が息をのんで沈黙している間を、ホルンが天の使いのようにおりてくる」と評した非常に印象的な美しい部分に特に注目してほしい。
非常に力感的でエネルギッシュな部分も多いのだが、静けさと抒情性、繊細な美しさ、特に管楽器の音色の美しさが際立つ非常に魅力的な楽章だ。
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【第3楽章】 Scherzo. Allegro vivace
ハ長調、三部形式、3分の4拍子の大掛かりなスケルツォ 約11~12分
ここでこの曲の特徴のリズムの乱舞が大々的に展開される。非常に陽気な音楽で、いかにも上機嫌のシューベルトだ。
強調されたリズム乱舞と対比的な流麗なメロディとが折り重なっていく。そこ大胆な転調が加わっていく。本当に目まぐるしい音楽だ。
中盤に現れる朗々とした伸びやかな歌も実に気持ちがいい。いかにもシューベルトらしい美しいメロディに心が洗われるかのよう。実に晴れ晴れとした気分にさせてくれる。
【第4楽章】 Finale. Allegro vivace
ハ長調、2分の4拍子、自由なソナタ形式 約12~13分
この楽章が全体のハイライト。これが頭の中にこびりついてしまう音楽なのだ。狂喜乱舞するリズムの饗宴。
髪を振り乱しながら歓喜の歌を歌い上がるかのような高揚する音楽。
全く一音たりとも無駄のない音楽が少しずつ更に熱を帯びて上昇していく。
そして絶え間なく繰り返される転調の嵐。
リズミカルな音楽の一方で、ベートーヴェンの第九の第4楽章の歓喜の歌(「喜びの歌」)と非常に良く似たメロディが登場して驚かされるのだが、激しいリズムとこのベートーヴェン模倣メロディが、互いにぶつかり合いながら歓喜の歌を奏で続け、目が眩むような高みへと一緒に昇りつめていく。
これは本当に興奮させられる音楽だ。頗る陽気で上機嫌な音楽で、聴いていて本当に嬉しくなってしまういかにも快活なエネルギッシュな音楽。
これぞ本当のシューベルト!と思わず大声で叫びたくなってしまう。
交響曲の番号(番号付け)の問題
シューベルトの交響曲の番号はかなり面倒だ。第○番という奴である。交響曲の番号付けの問題だ。
それがかなり近年になって見直されたことで、従来完全に定着していたものが、大きく変更されて、かなり混乱している。
どんな作曲家の交響曲でも、その交響曲に付けられた番号は非常にイメージが強い。それはもちろんベートーヴェンの不滅の9曲の影響が絶大だ。
ベートーヴェンの9つの交響曲が、その交響曲に付けられた番号によって曲のイメージと密接不可分に結びついていることが大きい。
奇数なのか偶数なのかも大きな問題で、まるで曲のイメージが変わってしまう。
それだけに、長年に渡って定着してきたものが、後年になって変更されることは、曲のイメージが根底から覆されるため、くれぐれも慎重に対応してほしいものだ。
そんな困った事態がシューベルトの交響曲に起きた、いや起きているのである。
細かく書き始めるとかなり面倒くさい話しとなり、文量も相当なものとなるため、ここではごく簡単に触れるに留めたい。
1978年に見直された
要はシューベルトの作品である番号であるドイチュ番号を整理するに当たって、1951年に作曲された順に従って、有名な未完成を第8番に、今回取り上げたザ・グレードを第9番にした。
これは実際にそれ以前から用いられていたものだった。
それを1978年になって、国際シューベルト協会がドイチュ目録改訂で見直し、未完成を第7番、ザ・グレードを第8番に改めたという経緯である。
20世紀後半、まだ比較的最近のことなのだ。さすがに見直しから50年近く経過して、この新しい番号が定着しつつあるが、未だに1951年の番号で表示されることも多く、混乱している。
今回の僕のブログでは、国際シューベルト協会による1978年見直しの第8番で表示しつつも、括弧付きで長年に渡って親しんできた第9番という番号も合わせて表記することにした。
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「ザ・グレート」の愛称の由来
「ザ・グレード」というこの曲の愛称については、比較的単純明快である。
シューベルトにはハ長調の交響曲が2曲あり、第2番の小降りな作品を小とし、最後の交響曲であるこの長大な第8(9)を大と呼んで区別した。
その「大」をグレートと呼んだだけのことである。もちろんシューベルトが名付けたわけではない。
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ベートーヴェンの第7交響曲と瓜二つの名曲
僕はこの「ザ・グレート」は、愛称こそ付いていないもののベートーヴェンの全9曲の交響曲の中でも屈指の名曲として愛されているあの第7交響曲に、非常に近いものを感じている。
ベートーヴェンの交響曲第7番イ長調作品92は、ベートーヴェンの全交響曲の中でもというよりも、全作品を通じても、最も人気の高い名曲の一つで、特にその圧倒的なリズムとバイタリティー、エネルギッシュな作風は随一のもの。
「リズムの権化」ともいわれる破天荒なまでのリズム乱舞とエネルギーの爆発は、このシューベルトの「ザ・グレート」に相通じ、同質なものだと、僕は勝手に確信している。
一卵性双生児というか、ベートーヴェンの音楽を愛して止まなかったシューベルトが、自身の大作の中にこのベートーヴェンの魂を吹き込んだものとしか思えない。
特に第4楽章にその類似性を強く感じる。
ベートーヴェンの交響曲交響曲第7番イ長調作品92・・1811年~1812年にかけて作曲された。
シューベルトの交響曲第8(9)番「ザ・グレート」・・1825年~1826年にかけて作曲された。
この両曲の作曲年代は、シューベルトの「ザ・グレート」が第7交響曲の14年後に作曲されている。シューベルトが15~16歳頃にベートーヴェンの第7交響曲が作曲されており、シューベルトは当然この曲を聴いていたことは間違いない。
シューベルトは尊敬してやまないベートーヴェンの音楽の中でも、交響曲第7番にとりわけ魅力を感じて、その精神と神髄を自らの大作の中に注ぎ込んだ。
こうしてベートーヴェンの至高の傑作交響曲第7番に勝るとも劣らない傑作が誕生することになった。
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吉田秀和「私の好きな曲」での解説が圧巻
音楽評論家の吉田秀和に僕が深く心酔していることは何度も書いてきた。
吉田秀和という人は、この業界(音楽評論)の神のような存在で、いつ、どのような文章を読んでも心の底から感心させられ、唸ってしまうのが常だ。その審美眼が特別な才能であったことはもちろん、何よりもすごいことは、音楽の素晴らしさの本質を言葉で表現できたことだ。
その文章の卓越さと表現力は尋常ではない。音楽を言葉で表現することのできた唯一の人。
その吉田秀和の名著中の名著である「私の好きな曲」の中に、シューベルトのこの「ザ・グレート」が取り上げられており(「シューベルト『ハ長調交響曲ハ長調D・944』)、その文章が凄すぎる。
こういうものを読むと、自分の文章の稚拙さが嫌になるほど痛感させられて、自己嫌悪に陥ってしまうのだが、ここで注意してほしいのは、吉田の文章のうまさと表現力の豊かさは他に並ぶべき人を見つけることができない高みに達しているが、そんなことは吉田にとってはどうでもいいことで、とにかくこの文章の中に、シューベルトという作曲家の本質とハ長調交響曲の素晴らしさの核心部分がものの見事に言い尽くされていることだ。
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吉田秀和のハ長調交響曲の表現
吉田秀和がこの曲を解説した文章をいくつか引用してみる。
「交響曲の圧倒的な大きさと、その中にある微妙で優しい美しさとの結びつきが、ほかのどんな音楽ででも味わえない陶酔感で私をみたすからというにすぎない」
「ここには、何よりも歓喜がある。いや正直いうと、私は、ほとんど、ここには、終わることのない歓びの泉からじかに水をのんだ記憶となって残るものがあると書きたいところなのだ。これは、しかし、大胆不敵を極めた作品である」
「この交響曲をしめくくる終楽章の雄渾と微妙とが交錯して、極まりのない歓喜をつくる壮観に至っては、どう記述したらよいのだろうか?」
シューベルトへの評価にも戦慄が走る。
「シューベルトという男は、疑いもなく、人間の心の奥底にある何かにじかにぶつかり、そこに眠っている深い恐怖をひきずりだしてくることのできた芸術家である」
「シューベルトには、音楽にしかない道を通って、こういう生死の根源的な源泉にじかにぶつかるという経験を、きき手に味わわさずにおかない能力がある」
こういうものを読まされると、もう何もいうことがなくなってしまう。絶句。
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指揮者によって演奏にかなり違いが出る
これだけの名曲だけに著名な指揮者による名盤が揃っている。
僕の手元には8種類の演奏があったが、僕は主に大指揮者として有名な往年の名指揮者の名盤を聴くことが多い。
フルトヴェングラー、ワルター、ベームが中心だ。トスカニーニも良く聴く。
この曲は、意外にも演奏が困難なのか、実はあまり気に入った演奏がない。
ワルターは「未完成」で大変な名盤を残しているだけに大いに期待したのだが、これが意外にもあまり良くない。一番安定していて、隅々まで安心して聴いていられるのはベーム盤。
この曲では管楽器がかなり全面的に出てくるため、この管楽器がどう鳴るかによって、演奏の質が決まってしまうところがある。
その点、ベームとベルリン・フィルはさすがというしかないバランスの良く取れた、それでいて大胆さにも事欠かない気宇壮大な演奏を繰り広げ、文句の付け所がない。安心して聴いていられる。
1枚のCDに「未完成」と一緒に収録されていることも嬉しい。
比較的新しい録音ではギュンター・ヴァントの演奏が素晴らしい。オーケストラはケルンWDR交響楽団(旧称はケルン放送交響楽団)。1977年の録音。
これが息を飲む素晴らしさ。惚れ惚れするような実に美しい演奏。管楽器の美しさがピカ一で、弦楽器との掛け合いもこれ以上ないと思わせてくれる繊細な美しさを誇る。
細部に至るまでトコトン丁寧に磨き抜かれている様に驚嘆させられる。それはほとんど妖艶な色気のようなを感じさせて、非常に官能的だ。ゾクゾクしてしまう程。
もちろん力強さやダイナミズムにも全く不足はなく、世界トップのオーケストラではないはずなのに、この見事さはヴァントの実力のなせる業か。
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シューベルト畢生の大作をトコトン味わって
これは本当に名曲だ。シューベルトに感情過多な女性的なものを感じている人は、この「ザ・グレート」を聴いて、そのシューベルト感を改めていただく必要がある。
31歳というあまりにも短い生涯で死んでしまった大作曲家に付きまとう、女性的、センチメンタル、抒情的、感情過多、根暗といったイメージがいかにシューベルトの音楽が持つ本質とかけ離れているか。
この人はとにかくデモーニッシュな恐ろしさを身に付けていた作曲家で、とにかく思っているよりもずっと奥が深く、深遠な作曲家。
シューベルトの本質を聴こうと思ったら、どうしてもこの「ザ・グレート」は欠かせない。シューベルトのイメージが大きく覆ることだろう。
シューベルト畢生の大作「ザ・グレート」をじっくりと聴いてほしい。
☟ 興味を持たれた方は、どうかこちらからご購入ください。
1,378円(税込)。送料無料。
カール・ベーム指揮 ベルリン・フィルによる名演。「未完成」とのカップリングも嬉しい。
シューベルト:交響曲第8番≪未完成≫ 第9番≪ザ・グレイト≫ [ カール・ベーム ]
☟ 吉田秀和 「私の好きな曲」
1,430円(税込)。送料無料。