目 次
初めて実際に読んだ「ソクラテスの弁明」
こんなあまりにも有名な古典的な名著を、今まで実際に読んだことがなかった。僕は哲学にも非常に興味があるだけに、忸怩たる思いである。
ソクラテスのことも、ソクラテスが裁判にかけられ有罪となって毒杯を仰いで刑死したことも、そしてその裁判の顛末を弟子のプラトンがまとめたことも、もちろん良く知っていた。
これは世界史の常識だし、哲学の「基本のき」である。
でも、実際には読んでいなかったのだ。
それがどうしても読みたくなったわけには2つの経緯があった。
一つは、このブログでも紹介している塩野七生の「ギリシア人の物語」を読んで、ソクラテスのことが盛んに語られることで、従来にも増して興味を持ったことが大きい。
ソクラテスの死が古代ギリシア史の中で、どういう位置付けになるのかが良く理解できたことで、やっぱり実際に無性に読みたくなった。
もう一つは、今は非常に読みやすい新訳が出ていて、その文庫本がかなり話題になっていることだった。
光文社古典新訳文庫からプラトンが続々
亀山郁夫のドストエフスキーの翻訳を巡って、光文社古典新訳文庫のことは縷々書かせてもらった。
到底考えられなかったあのカッパブックスの光文社から本格的な古典の文学作品が続々と文庫なって発刊され、それはやがて古典の小説だけではなく、ヨーロッパの様々な時代の様々な哲学書にも広がり、新訳が次々と文庫化されているのである。
現代人にも抵抗のない読みやすく、分かりやすい新訳というポリシーが徹底されており、加えてフォントも大きく、難解な哲学書が非常に読みやすくなっている。
もちろん文庫本ということで、安価でもあり、実にありがたい。
光文社古典新訳文庫は、分かりやすく言えば、「第二の岩波文庫」のような存在となっている、という驚嘆すべき出版界の現状を書かせてもらった。
そんな状況で、光文社古典新訳文庫にはプラトンによる「対話篇」の数多くの作品の新訳が続々と出版されている。
光文社古典新訳文庫は、非常に良心的な編集となっていて、ドストエフスキーなどの小説に限らず、哲学書についてもとにかく解説が極めて充実しているのが特徴だ。
これはやっぱり嬉しい。新しく訳した各界の第一人者による詳細な解説は、実に貴重なものだ。
そんなこんなで、初めて「ソクラテスの弁明」を読んでみた。
非常に読み易く、興味深かった
光文社古典新訳文庫の「ソクラテスの弁明」は非常に読み易く、スラスラと読めた。ソクラテスの言葉というか、肉声を現代の言葉で明確に翻訳してくれているので、ストレートに読み手に伝わってくる。
読み易ければ、当然のことながら、内容も理解しやすい。内容が理解できれば、ソクラテスがどうして死刑にならなければならなかったのか、それをどうしてソクラテスが受け入れたのか、などの謎が非常に分かりやすく理解することが可能となって、興味が尽きなかった。
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ソクラテスの哲学を対話篇で伝えたプラトン
先ずはこの新訳の紹介に入る前に、一番の基本から触れておきたい。
つまりソクラテスと本書の著書であるプラトンの関係についてである。
ソクラテスの弟子がプラトンであり、プラトンの弟子にアリストテレスがいて、この3人によって古代ギリシア哲学が空前の高みに達したことは、誰だって知っていることだろう。
意外と知られていないのは、あのソクラテスには一冊の本もないこと。
ソクラテスという人は、生涯を通じて著作物は、一切残さなかったのである。
それなのにどうしてソクラテスのこと、彼の哲学や思想がこれだけ広く知られているかというと、それは弟子のプラトンのおかげなのである。
著作物を一切残さなかったソクラテスの哲学と思想は、全て弟子のプラトンが後世に伝えた。
本当にプラトンという人はすごい人。この人がいなければ、ソクラテスのことは完全に埋もれてしまっている。
そればかりか「アカデメイア」という学びの場を作り、多くの若者たちを育て、その中からアリストテレスという桁外れの大哲学者が生まれた。
プラトンの「対話篇」
逆に言うと、プラトンには膨大な著作があるのだが、そのほとんどは「対話篇」と呼ばれているソクラテスの言葉をまとめたものが中心だ。
ソクラテスは本当に変わった人で、本は一切書かないのに、道で人々を捕まえては、盛んに議論を交わした。そのソクラテスが様々な人と交わした議論、対話をプラトンがまとめたものが「対話篇」なのである。
対話篇の対話は、全てソクラテスと他の哲学者や知識人とのやりとりを記録したものだ。それが数十冊もあり、それを通じて、我々はソクラテスの思想と哲学を知ることができるというわけだ。
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納富信留訳「ソクラテスの弁明」の基本情報
2012年9月20日 初版第一刷発行。僕の手元にある文庫は2022年2月10日発行の第12刷である。
10年間で12刷も繰り返しているのは、非常に売れている証。驚かされる。
訳者あとがきを含めて216ページあるのだが、注目してほしいのは、訳者の納富信留さんによる解説が約半分を占めていることだ。
正確に示しておこう。
『ソクラテスの弁明』を読む前に という副題のある訳者まえがきと目次を含めて冒頭部分が約10ページ。本編が始まるのは16ページからで、終了は106ページなので、「ソクラテスの弁明」の本編そのものは、ちょうど90ページであり、残りは訳者の納富信留による解説となっている。
その解説も大きく3つの部分に分かれている。
①『ソクラテスの弁明』解説 62ページ
②プラトン対話篇を読むために 35ページ
③ソクラテス・プラトン年譜 6ページ
あとがきを含めると合わせて107ページになるので、本編部分よりも解説部分の方が長い。
いずれにしても、この本書の半分以上を占める解説が、非常に貴重なものである。
90ページの本編は3部構成
本編、すなわち弁明そのものは、三部から構成されている。その内訳も示しておく。
第一部 告発への弁明
古くからの告発への弁明
新しい告発への弁明
哲学者の生への弁明
弁明の締めくくり
〔ここで有罪・無罪の投票がなされる〕
第二部 刑罰の提案
〔ここで死刑・罰金刑の投票がなされる〕
第三部 判決後のコメント
ソクラテスの肉声に接する貴重な体験
弁明をするのはソクラテスその人、本人である。最初から終わりまで法廷弁論としてソクラテス自身による一人称で語られていく。
もちろん弟子のプラトンが回想して書いているわけだが、実はこの弁明は、実際の裁判の模様を思い出しながら、忠実に再現したというよりは、プラトンの創作もかなり入っているらしい。
そうは言っても、誰よりも師のソクラテスを尊敬し、理解しているプラトンが、多少の創作を交えながらも、ソクラテス自身の言葉として、自身がやってきた生き様と考えを説き、自らの無実を訴えるのである。
そのスリルとサスペンスは相当なものだ。
あのソクラテスの肉声、しかも死に追い込まれた大哲学者の弁明の言葉、一言一言が実に重く、聞き手、そして読み手に迫ってくる。
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ソクラテスは何の罪で訴えられたのか?
ソクラテスを訴えたのは、メレトスという若い詩人。ソクラテスの告発者、すなわち「ソクラテスの弁明」の中でソクラテスを告発した者としてだけ知られている小人物である。
但し、その背後にはアニュトスという時の政権の担い手が関わっていた。
彼らがソクラテスを訴えた告発内容は2つあった。
一つはギリシアの神々を否定したこと。
もう一つはアテネの若い市民におかしな思想を植え付けようとしたこと。青年を腐敗させたと訴えられた。
直接民主政のアテネだけあって、裁判員は501人もいる。当日くじ引きで選ばれたアテネ市民である。この501人の投票によって有罪か無罪かが決まり、更に有罪になった場合には、2回目の投票として刑罰の内容も決まるという仕組みになっていた。
ソクラテスの活躍した時代はアテネの衰退期
ここで、改めてソクラテスが活躍し、最後に死刑判決を受けることになるこの時代のアテネが、どんな状況だったのかを知ってもらう必要がある。
古代ギリシアのアテネ(アテナイ)は、直接民主政を確立させた都市国家(ポリス)として名高い。これは誰だって知っている常識だ。
隣の強大なアケメネス朝ペルシアがギリシア世界に攻め込んできた「ペルシア戦争」に、アテネとスパルタを中心に多くのポリスが結束して勝利した後に、最盛期を迎えたアテネ。
時あたかもペリクレスという大政治家にして卓越した指導者が現れ、ペリクレスの元でアテネは絶頂期を迎える。
ソクラテスの生涯は、そのアテネの黄金期のペリクレス時代には若干は重なってはいた。
ペリクレスが死んだとき(BC429)、ソクラテスは約40歳(ソクラテスの生年はハッキリしない)であったが、ソクラテスの活動はその後が中心となるため、ペリクレスが支えたアテネの最盛期とソクラテスの活動時期とは、ずれていたことに注目してほしい。
つまり、ソクラテスが活動した時期はペリクレスが亡くなって、それと同時に一挙にアテネが衰退期に入ってくる、言ってみれば「アテネの終わりの始まり」の時期だったのである。
ペリクレスの晩年(死の2年前)に、ギリシアのもう一方の雄であるスパルタと「ペロポネソス戦争」という不毛な内戦を始めてしまう。
それが何と30年近くもダラダラと続き、しかも予想に反してアテネが負けてしまうのだ。
ソクラテスが活躍していた時代は、そんなアテネが衰退に向かう時期だった。
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ソクラテス裁判の歴史的背景
アテネの終わりの始まりの時期に、ソクラテスが盛んに活動していたわけだが、ソクラテス裁判の背景には、もっと具体的な生々しい歴史的背景があった。
裁判が行われたのは、西暦紀元前399年である。時にソクラテスは約70歳の高齢に達していた。
これは例のペロポネソス戦争がアテネの敗北で終了した後の、正にアテネが転落に向かって雪崩落ちる時期に当たることに注目してほしい。
ペロポネソス戦争でスパルタに敗北した後、あの直接民主政のアテネに、何と親スパルタの三十人政権が成立した。この政権は民主政には程遠い存在で、恐怖政治を敷いた。
それは程なく崩壊し、民主政に戻りはするのだが、とにかく大変な政治的混乱が広がり、政権を奪取した民主派勢力も、ペロポネソス戦争の敗戦や三十人政権の惨禍を招いた原因や責任を厳しく追及する気運が高まる中で、ソフィストや哲学者、なかんずく誰彼構わず議論を吹っかけるソクラテスが危険人物に映ったことは想像に難くない。
時代がソクラテスに味方しなかったか
ソクラテスは、裁判の弁明としてしっかりと自身の生き方と哲学を語り、無実を訴えたが、もうアテネではポリスとしての力が衰弱し、まともな考えの市民がほとんどいなかったと言ってもいい。
あのペリクレスが存命中だったら、ソクラテスが訴えられることもなければ、仮に訴えられたとしても、このソクラテスによる弁明を聞けば、有罪になるなんてことは、まずなかったことは明らかである。
時代がソクラテスに味方しなかったということだったのかもしれない。
ソクラテスと弟子のプラトンとの年齢差
ソクラテスと、その弟子であり「ソクラテスの弁明」を著したプラトンとの年齢差は何と約40歳もある。
ソクラテスとプラトンの関係はソクラテスが60代の時に、プラトンは若い20代の青年だったという関係である。
ちなみにプラトンとその弟子のアリストテレスも年齢差も、約40歳。
ソクラテスとアリストテレスでは、80歳の年齢差、約100年の時代差があることになる。このあたりは、正確にイメージしてほしいところだ。
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古代ギリシア哲学の魅力
「ソクラテスの弁明」は、結局、ソクラテスは有罪となり、しかも罪状も死刑という極刑に決まり、毒杯をあおってソクラテスは死んでしまうわけだから、痛恨の極みではあるが、実に興味深く、読むことができた。
理由なき告発に対して、ソクラテスが501人の裁判員を前に、どのように無実を訴え、説得したのか?
その訴えと説得がどうして501人の市民に届かなかったのか?
それはどうか実際に本書を手に取って、読んで確認して欲しい。
キリスト教誕生以前はこんなにスッキリ
古代ギリシア哲学は実におもしろい。極めて知的でありながら、とにかくその思想と哲学にキリスト教の影響が一切ないことが、本当にありがたい。
誤解を恐れずにハッキリ言わせてもらうと、キリスト教的要素や影響を一切受けずに純粋に哲学を考えること、つまり、究極的には「人は如何に生きるべきか」という大問題に向き合うとき、キリスト教の影響を抜きに思索することは、普通は不可能なのである。
イエスの登場はまだまだズッと先のこと。400年も後だ。古代ローマ帝国においてキリスト教が公認され、迫害が終焉を迎えるのは西暦313年。更に国教として認められるのは392年である。
ソクラテスの死刑から800年以上も後のこと。
それ以降の哲学は、どんな著名な哲学者もキリスト教との関係抜きでは全く議論できない。およそありとあらゆる哲学者がキリスト教の影響を受けている。
19世紀末のキルケゴールやニーチェの実存主義哲学も、乱暴に言えば、キリスト教、あるいはキリスト教の神とどう向き合い、対峙し、折り合いをつけるか、ということだけがテーマのようなもの。
どんな哲学者もキリスト教のせいで苦しみもがいたと言ってしまいたくなる。これだけ人間の思考に絶大の影響を及ぼしたキリスト教の影響を、一切考慮することなく、純粋にいかに生きるべきかだけを追求できることが、どれだけスッキリとしていることか。
それだけでも古代ギリシア哲学はいい。気持ちがいい。
イエスの受難に似ているが
後世に絶大な影響を及ぼした人物が不当な裁判にかけられて死刑になるという意味では、ソクラテスの裁判は後のあのイエスの受難、十字架にかけられて殺されたイエスの裁判と実に良く似ている。
正にキリスト教が誕生する話しだ。
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表現の自由が徹底していたアテネの裁判に驚嘆
イエスの場合には周囲のパリサイ人たちが予めイエスを殺害すべく策を練って、逮捕呪縛し、陰湿かつ陰惨に殺していく暗く救い難い、サディスティックの極致のような悲惨さで、目と耳を覆いたくなる程だ。
ピラトの元での裁判もパリサイ人など聴衆の糾弾と罵詈雑言が甚だしい。
それに比べるとソクラテスの裁判は、訴えられた者が、こんなにも長く、自由に弁明を繰り広げることができる点は、その結果はともかく素晴らしいと感じてしまう。
実は、ソクラテスは敢えて裁判員たちを刺激して、挑発するようなところさえある。
そんなことも自由に出来てしまう。裁判での被告人の表現(発言)の自由がここまで許されていることに驚愕してしまう。
さすがは徹底した直接民主政を確立したアテネである。現代の裁判よりも被告人が大事にされているように思える程だ。
それが実は、この裁判当時のアテネの政情は実に不安定だったことは上述のとおり。民主政の危機に瀕していた時期であるにも拘らず、これだけの表現の自由、発言の自由が認められる裁判が行われていたことに、驚きを隠せない。
アテネはすごいなと感嘆してしまう。
400年後のローマ帝国におけるイエスの裁判がどれほど酷いものか、その違いは歴然だ。
ソクラテスはアテネが実力を失い、衰退期に差し掛かる時代の中での、悲劇的な裁判結果にはなったが、こんな開放された被告人にここまでの弁明を自由にやらせるアテネというポリスの素晴らしさに、何故か心は晴れやかになっていく。
不思議なものだ。
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ソクラテスの哲学の本質については後日
「汝自身を知れ」「汝の無知なることを知れ」と訴えたソクラテスの哲学の本質については、今回は触れない。
初めて実際に読んでみたプラトンの対話篇が殊の外おもしろかったので、今後もドンドン読んでみるつもりである。
その中で、ソクラテスの哲学とプラトンがそれをどう継承し、発展させたいったのかについても、おいおい触れていくつもりだ。
先ずは、告発された大哲学者が、どのように自分のことを語り、何を訴えようとしていたのか。
それをソクラテス自身の言葉で味わい、吟味していただきたい。
必読の哲学書。それ程は難しくないので、是非どうぞ。
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